真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光への感謝状

以前、「真光に対して感謝を捧げれば最高の復讐になるだろう」と述べたことがあります。

今やトゲがだいぶ取れてきましたので、「復讐」という物騒な言葉が不似合いになりつつあります。

真光に対する恨みでいっぱいの人には是非実行していただきたいのですが、真光のことを恨むよりあなたが幸せになった方が「復讐」になります。

なかなか相手の立場になって考えることは難しいです。
あなたがひじょうに恨んでる人間のことを想像してください。一人や二人、絶対に許せない人がいるでしょう。
その人があなたのことを憎んでいる場合はどんな気持ちになりますか?
今度はその人があなたにしたことを忘れて幸せに暮らしていたらどう思いますか?

これが「幸せになった方が復讐になる」という意味です。

真光は試験のようなものです。
勉強するのは苦痛ですが、試験がなければ身につきません。

私も人間ですから、試練はつらくて逃げ出したいものです。でもやがて勝利した暁には必ず何かを学び取っています。
チャンスはピンチの顔をしてやってくるとはよく言ったものです。

信者時代の苦しかった子供時代を含めて、私は本当にたくさんのことを真光から学びました。それは日々増え続けています。
この経験がなければ今ブログも書いていません。神話に親しんだり、寺で安らいだりしていません。

これはただ蝶よ花よと甘やかされて日々を楽しく過ごしていたら得られなかった経験です。
昔は出来なかったこと、理解できなかったことや受け入れられなかったことが今は出来ます。

真光は苦しめるつもりで攻撃をしてますが、私はそれを成長の糧にすることができます。
私の人生に不要なもの、取り除きたい過去は何一つありません。

真光に対してはけっこう感謝しています。
曇り一つない純粋な感謝にまで達するといいですね。

真光の元ネタ:ありてあるもの

真光の経典で「ありてあるもの」というフレーズがあったような気がします。

毎度のことで申し訳ありませんが、記憶も薄れ経典も手元になく確認ができません。「そんな言葉は載っていない」ということでしたらお知らせください。

出エジプト記

元ネタはユダヤキリスト教の経典、旧約聖書出エジプト記です。
モーセヤハウェの名前を尋ねたときの回答が「ありてあるもの」。この意味を答えられますか?

様々な訳し方をされており、統一見解はないようです*1

「私はなる、私がなるものに」(岩波訳)
「私はある。わたしはあるという者だ」(新共同訳)
「わたしは、有って有る者」(口語訳)
「わたしは自分がなるところのものとなる」(新世界訳)

「『ある』の方だと『オレはとにかくスゲエんだぞ』『オレは常に共にいるよ』辺りの解釈。『なる』の方だと『オレが何になるかはオレが自由に決めるんだ』くらいの解釈です。後者は名前によっと属性を限定されることを嫌っている??(エホバの証人は『神は必要に応じて色んな役割を担う』といった理解)」
「バカダークファンタジー」としての聖書入門P38より

多分、光玉氏はかっこよさそうな雰囲気で持ってきてしまったんじゃないでしょうか。

基本的に神道や仏教ベースの教えが多いようですが、キリスト教も勉強をして教義に取り入れていったのでしょう。
キリスト教の中でも「三位一体」などの日本人になじみの薄いものは取り入れなかったようで、そこは彼のセンスだと思います。

「パクリだ、コラージュ教義だ」などと批判的な気持は沸いてきません。光玉氏は好奇心から色々なものを無邪気に取り入れて、結果的につぎはぎのカルトが出来上がってしまっただけなのかもしれません。

彼も一人の人間です。
神格化して祭りあげることも、悪魔化して貶めることも間違いなのではないでしょうか。
そしてその方向に誘導しているのは誰なのか、考える時期ではありませんか?

参考:

出エジプト記3章14節 - 牧師の書斎

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

体調管理

役に立つ真光シリーズ

Q.ブログ主、けっこう病気になったりトラブルになってません?

unlearn-mahikari.hateblo.jp

元々健康体なのですが、寄る年波には勝てず今年は病気になることが多いです。
一病息災とはよくいったもので、健康な人間は健康管理が苦手なことがあります。体長の変化に鈍くて早めに対処できなかったり、健康を過信したり、病院に行かないことが自慢になってしまって診察が遅れたり。

今年は自分の体の労り方を学ぶ年だと思っています。

色々とトラブルがあり、確かに疲れることは多いです。しかし問題のない人生を送る人などいないでしょう。

そのときは苦しくても意味があるのです。私は苦痛を乗り越えた後に学びを得ています。
苦手な長期戦を強いられても、そこから対処法を習得しています。

今年はかなり苦痛がありましたが、非常に重要な概念を体得しました。
意味不明で対処のしようがなかったことも、新しい視点から見れば分析できるようになり、対策も立てられるようになりました。

真光は嫌なことや苦痛をもたらしますが、そこには大きな宝とともに運ばれてくるのです。パンドラの箱みたいなものですね。
真光は私をどんどん成長させてくれるので真光には本当に感謝しています。

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真光をやめさせたい

批判サイトは脱カルトに有効か?

真光をやめた成功例でよく見かけるのは「批判サイトを見て目が覚めた」というものだと思います。
インターネット上に批判的な情報があり、インターネットに親しんでいる人達がそこにたどり着いた。その一部は脱会できた。
しかし信者の内、何割が批判サイトを見て、その中の何割が真光をやめられたのかは実数が解りません。

批判サイトで目を覚ましたという証言があるからといって、この手法が効率的なのかは判断ができないのです。

真光やめたら地獄に落ちるよ!

真光は信仰を捨てることに対して強く脅しをかけています。これはカルトの特徴です。
信者にとって信仰を捨てるのは崖から飛び降りるようなものです。それ以外の世界など存在しないのですから。よって「インチキの証拠を突きつけて目を覚まさせよう」という行為は崖に立つ人を後ろから突き落とす行為です。

「ここ真光批判サイトじゃないの? やめさせないの? あんた真光のスパイなの?」

「やめさせる」というのは「強要」です。そんな言葉が出てしまうのはなぜでしょうか?
「相手を自分の都合のよいようにコントロールしよう」「支配しよう」という気持ちがありませんか?
自分が正しいと確信したら、それはすでに真光に敗北しているのです。

怒りや憎しみなどのネガティブな気持ちで接して強要しても相手は反発するだけです。 自分が同じことをされたらどう思うか考えましょう。
仮に強引に形だけは退会させても心は真光に囚われたまま。表面的にはやめたように見えるため、問題がより複雑になります。

真光に限りませんが、他人は変えられません。 自分が変わると相手も変わります。

やめさせようとすると、そればかり考えてしまいます。本当に必要なのは真光をやめさせようと躍起になることではありません。相手を動かすというのは相当頭を使います。相手は一人の人格であって、自分の一部ではないからです。思い通りにならないのは当たり前です。

悪意や攻撃などは相手に防御を取らせ、堅く殻に閉じこもらせてしまいます。聞く耳持たないか、反論するか、縁を切るぐらいしか結末はありません。
自分が相手を否定すれば相手も自分を否定します。
だから否定しない、強要しない、攻撃しない。
まずはひたすら耳を傾けて共感し、受け入れることです。

私のスタンスとしては「気づいて、考えて、選択してもらう」ですね。

真光をやめることは崖を飛び降りること。
まずは今の足場(真光)以外にも世界が存在していることを知ってもらおうと思います。真光と関係なく幸せに暮らしている人たちがいることや、やめた人は健やかに暮らしていることを知ってもらいたいです。

やめたあとの情報が意外と少ないんですよね。だから真光やめたら罰が当たると思ってしまう。

だからこのサイトのタイトルとは「真光やめたら幸せになりました」なのです。
真光批判を繰り返すよりも、やめた後の幸福を語る方が真光にとっては嫌なことなのです。

そうやって崖の向こう側の世界から、ちょっとずつ足場をのばしていこうと思います。
恐怖心に克って向こう側の世界からこちら側にジャンプするのは無理ですから、できるだけ近くまで足場を寄せていくのです。

母が真光から解放されるように、頭を使います。

unlearn-mahikari.hateblo.jp
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やめてほしけりゃ批判はするな

急がば回れ

真光をやめさせたいなら、やめさせようとしたらいけないんですよ。

禅問答をしているわけではありませんので、逆の立場で考えてみましょう。

他人に真光をやめさせようとする行為は、自分にとってはどういう行為に該当するか考えたことはありますか?
真光をインチキカルトだと知ってる人に対して入信を強要するのと同じです。棄教させる正義と信仰を強制する正義はまったく同一と言えます。

「どうして真光信者はこんな幼稚な教えを信じてるんだ」と思ってるあなたは、信者からは「邪霊から操られてるかわいそうな人だ」と思われています。
頭に血が上ったり自分が絶対的に正しいと思い込んでしまうと、この単純な事実が理解できなくなります。

「自分が正しくて向こうが間違っている!」

相手も同じことを考えています。これでは平行線で説得の余地はありませんよね。
やめさせるどころか、関係がぎくしゃくしてそのうち会話もしなくなり、同じ屋根の下にいるのも苦痛になります。

自分が正しいと思った時点で真光の罠にハマっています。
正しさは暴力の免罪符となり、いつの間にやら相手に対する敬意や思いやりが消えています。
そんな人間の言うことなど聞き入れるはずがありません。自分が同じことをされたら嫌でしょう?

棄教の暴力性

信仰を奪うことを軽く考えすぎなのではないでしょうか?

信者はつらいことがあったり、悩んだり、病気などの弱みにつけ込まれて真光を信仰することになったはずです。私が信者だった頃は病院の入院患者の部屋に入っていって勧誘するのが美徳でしたから。
親が信者で、母親のおなかの中にいるときから手かざしを受け続け、真光の教義を常識として教え育てられた二世信者もいます。
真光が日常になると、脱会することが海外に移住するのと同じくらい大変なことになるんですよ。

そんな状態でインチキの証拠なんかつきつけたらどうなりますか?
逆ギレして認めないなら、否定する元気があるわけですからまだましな方です。

真相を知り、インチキだと認めてしまえば、文字通り心の支えをボキっと折ることになります。精神を病んでしまってもおかしくありません。それでその後のことはどうするのですか?

むしろ心を折ってしまった方が真光にとっては利益になります。
真光の目的は人を苦しめることなので、もはや信者として教団に帰属しているかどうかは二の次です。
形式的には真光から脱会したとしても、真光憎しで夜も眠れないほど苦しんでいたり、脱会信者と現役信者の人間関係に亀裂が入るのならば、真光は喜ぶでしょう。

正しさとは暴力的なものです。信仰を強引に奪うことは、カルトでもすべきではありません。そんな権利は誰にもないのです。
第一そんなことをしても意味がありません。薬物依存症の人間から突然薬を取り上げても何もならないのと同じです。

カルトしか救いの手を差し伸べてくれなかった、そこにしか心の支えや居場所がなかったということもあるんですよ。
そういう人に対して必要なことは、強制的に目を覚まさせるようにインチキの証拠をつきつけることでしょうか?

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真光批判の意味のなさ

批判は逆効果

真光批判ってあんまり意味ないですよね。それが私のスタート地点です。

真光被害に怒ってる方に「批判など意味がない」言うと「真光の肩を持つのか」と思うことでしょう。

批判サイトは確かに信者を減らしたでしょう。
しかし批判サイトができはじめてからすでに10年以上が経ちました。批判サイトで目が覚める人はもうとっくにやめているのです。
そもそも批判サイト自体見ない人や、しがらみでやめたくてみやめられない人、批判サイト程度では信仰が揺るがない人などが残っているのでしょう。

さて、90年代くらいはオカルト番組が多かったです。UFOだネッシーだミステリーサークルだノストラダムスの世紀末だって騒いでたんですよ。
オウム真理教の教祖ですらテレビに出ていましたが、サリン事件で一気にカルト宗教への目が冷たくなったのです。そういうのもあってオカルトブームは去りました。
カルトも伝統宗教も含めて、全般的に宗教の信者は右肩下がりです。

ところで真光批判サイトってなぜ削除されないのだと思います?

言論の自由だから」
「削除依頼を出して騒がれたら困るから」
「消すと増えます、でしょ?」
「裁判になるとインチキがバレて逆に困るはず」

という批判サイトが有利なように考える意見も見かけますが、私の考えは違います。
「真光に有利だから」です。

真光を批判したり攻撃しても意味がない

真光をやめさせようとやっきになると視野狭窄になります。
人間は怒ると深く考えることをやめてしまい、白黒思考になりやすいのです。
世の中も信者の心も複雑なのに、これではよい考えも浮かびません。

正義感にかられて動くと、自分の言いたいことだけを言って終わりになってしまいます。それは逆効果です。

相手を動かすことが本来の目的なのですから、「では、どうするのか?」という難しいことに向き合わなければなりません。

人間の失敗作

ユダヤキリスト教の神、ヤハウェは人間を作りましたが失敗したなあと思って滅ぼそうとします。
ノアの箱船が有名ですね。

真光においても神様が人間を作ろうとして失敗してしまい、それでできたのがサルや馬と言っていた気がします。
(毎度ながらよく覚えていないので、間違っていたらすみません)

うしおさんが、「それは初代が飲み会でその話をして、どっかんどっかん受けたんだと思う」と爆笑していました。
そんなわけで教典に加わったとしたらおもしろいですね。

サルは人間に似てるのだから分かります。
なんで馬? と疑問に思いました。
軍人だから馬が身近だったのかな? と思ったら落馬で入院してましたね。
こうやって読み解いていくと、教義もおもしろいですよ。

うしおさん的には「初代からはあまり自己愛性パーソナリティ障害っぽさは感じられず、二代目の方がそういう感じがする」と言っています。

もはや真光への憎しみがほとんどないので、私は「光玉氏自体はけっこう気のいいおもしろいおっさんじゃなかったのか説」を提唱しています。

光玉氏ご本人も神格化され過ぎたことに対して「なんかもやっとするなぁ」と思ってるかもしれません。