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真光やめたら幸せになりました

真光抜けて十数年経ってようやく洗脳が解けました。

うしおさんが山に呼ばれすぎ問題

存在感のある鳥居

大きな道路に立派な鳥居があります。毎回通り過ぎるだけなので名前も読み取れず何の神社かは分かりません。通る度にいつも気になります。
すごーーく気になります。

うしおさんにその話をしました。ああ、あれだよねぇ、と声が曇ります。
「あそこは行かない方がいい。呼んでるけど、だめ」
なんとなくそんな気はしましたが、やっぱり悪い意味で呼ばれています。ちなみにそこそこ高さのある山です。――また山なのです。

前回の山の神事件についてはこちら。
unlearn-mahikari.hateblo.jp
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うしおさんの霊感によると「バブル期が終わったあたりから人口が減り、祀られなくなったから怒って荒ぶってる」そうです。由来の看板も落っこちてましたしね。
「気になるなぁ」
「とばっちりが来るからだめ。暴れている人間に近づいたら殴るつもりがなくても手足が当たればケガをするのと同じ」と諭されました。

地図で調べたら神社の名前が分かりました。神様のお名前で調べると、祟りやすい神様だの恐ろしい話がでてきます。
ではなんでそんなおそろしいものを祀らなければならなかったのでしょうか。きっと歴史をひもとかないと分からない事情があるのでしょう。災害が多いとか、地盤が弱いとか、そういう土地の事情が。

Google Maps再び狂う

うしおさんが仕事で初めての場所に行ったときの話です。
まったく知らない会社を訪問するのでGoogle Mapsアプリで社名と地名を入れて検索しました。

ナビ通りに進むとどんどん山に上ってしまい、とても会社があるような雰囲気ではありません。なんと例の神社にたどり着いてしまいました。
何度検索してもあの神社の場所にピンが立ちます。普通の市街地にある会社のはずなのに。
あせったうしおさん、「こんなときこそ冷静に」と声が聞こえたそうです。落ち着いて紙の地図を出して無事にたどり着いたそうです。

そもそも地図アプリで探すような場所でもないのに、なんでか探してしまったとのことでした。

真光の役割

一つだけ真光が役に立つ場合があります。
信者である私の妹はいわゆるサイコパスだと思います。情や良心や共感というものが生まれつき欠落しているのです。そういう人間にとっては真光は、カタにはめると言えばいいのか、枠にはめることで犯罪者になることを防ぐ効果があるとうしおさんが言っています。

妹の夫は気弱で思考停止しているタイプで、妹に虐待されています。

以前実家に行ったとき、妹とその夫がいました。妹は夫本人が目の前にいるのに笑い物にしました。それは親しい仲だからこそ許される軽口だとか、悪口の体裁をとったノロケなどでなく、単なるいじめでした。さすがに彼も腹が立ったようで言い返していましたが、その怒りは妹には伝わらないというよりも考慮する価値がないような扱いでした。

私はぞっとしました。人の皮をかぶった何かを見ているような気持ちでした。

うしおさんは「旦那さん、いつか妹さんを刺すかもしれないね」と言っていました。夫を虐待するタイプの女性は真光に多いのでしょうか?
教祖が変われば信者の雰囲気も変わります。うしおさんが言うには二代目のカラーでこうなったようです。

真光の罠:真光に入ったことを後悔し続ける

真光小咄。

Eさんは、真光に魅せられて入信しましたが、色々と嫌なことが多かったので退会しました。
Eさんは真光をやめてからずいぶんと経ちますが、真光に入信したことをずっと後悔していました。
お金も時間も無駄にしてしまいました。しつこく勧誘して友達を失いました。職場でも就業時間内に真吼え(勧誘)をして浮いてしまい、転職せざるを得なくなりました。

「人間関係もよくて仕事もやりがいがあったのに。なぜあんなことをしてしまったんだろう」

自分を騙した真光が憎い。批判サイトを作る気力もなく、ただため息をついて暮らしています。何の喜びもない、喰うための仕事。酒とギャンブルと女の話しかできない同僚たち。ボスの顔色をうかがい、いじめられないように話を合わせるだけの自分に嫌気がさします。

ただただ失ったものを嘆き続け、自分を責め続けています。

後悔は気落ち

失ったものを悔やむ時間は必ず必要です。心の整理はそう簡単にはできません。カルト宗教のことなどは気軽に相談もできませんし、吐き出し口がなかなかないものです。

とはいえ永久に後悔し続けるわけにもいきません。
クヨクヨ悩み続けると、そのネガティブな感情は真光の肥やしになります。

変えられない過去を「こうすれば、ああしていたらと」考えても仕方ありません。後悔とは過去に生きることです。昔日の亡霊になるよりも「今、ここ」の一瞬を生きましょう。悔恨に囚われるのではなく反省を次に生かすのが大事です。紙に手書きすると案外冷静に過去を見つめられますよ。

人はまるごと

人間はまるごとでその人です。工作のように簡単に切り貼りできません。
都合の悪い部分を切り捨てたり、なかったことにしたりはできません。体の一部を切り落とすようなものです。

真光に騙されたこと、入信したこと、本気で信仰したこと。あるいは強制的に入信させられたこと。その過去を全部含めてあなた自身なのです。

真光をまじめに信仰していた部分も、あなたそのものです。その過去を否定するのは自分自身を否定することです。だから真光を攻撃しているつもりでも、実際に傷つくのは自分自身なのです。
ここが真光の罠ですよ。だから真光批判に意味はないのです。
(しかし裁判をするのはよいと思います。なぜなら正式なルールで戦うからです)

「色々失ってしまったけど、勉強になったなあ」

そんな感じで受け入れましょう。
真光に限らないと思いますが、拒否して逃げると何倍にも大きく膨れ上がって追いかけてきます。正面から向き合うと意外に「あれ? こんなに小さかったの?」となるものです。

真剣に向き合えば気づきや学びがあります。
経験から悟れたら、恨みも消えます。勉強になったなあと逆に感謝の念すらわいてきます。
そうやって乗り越えていくのです。

受け入れるというと難しいかもしれませんが、「まあいっか」と思えるようにやっていきましょう。

縁結びの神様

昔、縁結びの神様に参拝に行きました。その後すぐに出会ったのがうしおさんですので、神様からいただいたご縁だと思っています。

その神社の前をたまに通ることがあり、気になっていながらいつも通り過ぎるだけでした。先日お礼を言おうと踏ん切りをつけ、行きすぎたところをUターンしてお参りをしました。
看板を初めて読みましたが、古くからの由緒ある神社で、平安時代にはあったようです。

一の鳥居をくぐるとそこはまさに聖域。
参道を通りながら「美しいね」と何度か言いました。清澄で力強い領域です。春の日差しに生命があふれ、きらきらと輝いています。
人気はなく静穏な空間でした。小さいけれどよく祀られているようです。しめ縄は手作りのようで、周囲の方々の信神(信心)の深さが分かります。

神籬(ひもろぎ)

うしおさんが奥の方で大きなご神木を見つけました。写真やテレビでしか見たことがないくらいの幹の太さです。樹齢千年以上あるかもしれませんね。

「どうやらこっちが元の方だね」
とうしおさんが言いました。触れるととても静かで何もない空(くう)だったと言っていました。

太古の神様は名前がよく分からないそうです。
神社ができる前は山や木、川、石などに依(よ)りついた神様をお祭りしていました。その土地や神社に現れた神様と認識されていたので「○○(地名)神」という感じでお呼びしていたようです*1

正確な樹齢は分からないので想像ですが、この縁結び神社ができる前からご神木が祀られており、古事記日本書紀にあるようなお名前の神様がご祭神として神社に祭られたのは後なのでしょう*2

神社には本殿以外にも末社・摂社という小さなお社があることがありますね。そこに本社に縁のある神様を祭る以外にも、その土地に古くから鎮座している地主神を祭ることもあるそうです*3

うしおさんはそういう知識がないのに、元々ご神木が先に祭られていて、名のある神様が後から祭られたと言い当てました。かなり背の高い木ですが本殿からちょっと離れています。ご神木のすぐ後ろは森で、「木を隠すなら森の中」状態であまり目立ちません。うしおさんはよく見つけましたものです。

その後はささやかなトラブルがあり単なる勘違いだったので何も起きませんでしたが、お互いの愛をしみじみと実感しました。

うしおさんが神棚を家に置きました。私にも「たまには拝みなさい」と促してくれました。ほぼ無神論者だった私ですが、今やご朱印帳を一冊使い切り、悩み事があればおみくじを引くために参拝し、神道の本を買い揃え始め、朝晩神棚に感謝を捧げています。

うしおさんには当たり散らしたり、ひどいこともしました。私のことを恐れたこともありました。甘えすぎて負担をかけすぎることも多かったです。
まともな神経をしていたらとても私のような人間とは一緒にいられないでしょう。私は私みたいな人間とは絶対いたくありません。

うしおさんは愛の人

受け入れ、許し、ただ愛を注ぐだけで見返りを求めない人です。そんなフィクションみたいな人間が自分の目の前にいると気づくのに何年もかかりました。

母親の愛に飢えていた私はただうしおさんを貪って生きていました。
ときどきうしおさんはこぼすことがありました。
「砂漠に水をまいているみたいだ」
いつかは乾いた心も愛に満ちて、今は春です。あたりは色とりどりの花が咲きこぼれています。

真光やめて十数年。
頭も働くようになりましたし、ようやく人のことを思いやるようになりました。うしおさんと日々明るく楽しく過ごし、辛いときは助け合い、お互いを思いやり尊敬しあって暮らしています。

苦労はあっても不幸はありません。
億万長者にもスーパースターにも、天才にもなれませんが、私は幸せに生きています。

真光やめたら幸せになりました。

*1:「神社のいろは

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

」P20。

*2:清らかでパワーのある土地に神様をお祭りするわけですからそうなりますね。

*3:「神社のいろは」P21。

神風

うしおさんの体調が悪いこともあり、その日は私の思いつきで氏神様の神社に行きました。

参拝してお礼を申し上げた後に、うしおさんが「tenさんが柏手を打ったら神風が吹いた」と興奮気味に言いました。
私には「そういえば風が吹いているなぁ」という程度にしか思えません。
「どうして神風だって分かるの?」と聞いても、説明らしい説明はできないようです。
「あれは古代神っぽい感じがした。強い神様だよ」とうしおさんが言いました。

家に帰って掃除の細かい作業に集中しているときに、ふと私は気づいたのです。

「私は神様からお役目を授かったのだ」と。

真光にいたことはつらくて苦しいことでした。失ったものはたくさんあります。
でも、過去があるから今の私があるのです。もし真光と何の関わりもなければ、神棚を毎日拝んだり神道の神話に親しむような人間にはなっていないでしょう。きっと仕事も不真面目にやり過ごし、うしおさんのようなすばらしい人とも巡り会えなかったでしょう。
目的もなくだらだらと過ごし、愚痴を言いながら生きていたかもしれません。

真光という負があってこそ、私は学び、成長することができました。邪な教えに惑わされたからこそ、正しい道を強く求めることができました。

今、バラバラだった点と点が繋がり、線となって一つの意図を描いています。むしろ真光に入信させられたことでさえ、神様のお計らいなのかもしれません。神様というのは人間ごときには理解の及ばないことをなされます。

真光が教えてくれたこと

カルトの本質はすり替えとねじ曲げにあることを自得しました。
真光には気づきにくい罠が多く仕掛けられていることを推察しました。
真光への批判や攻撃が何の意味もないどころか肥やしになることを実感しました。
真光の真の目的を見破りました。
真光の神とされるものの正体に感づきました。
初代光玉のセクハラについて一つの結論に至りました。
言葉で説明することのできない、畏れ多い存在に感応しました。
欲や怒りや憎しみなど、負の感情の力強さを理解しました。
自分の頭で考えることの難しさを感じ入りました。

全部真光から教わったことです。結果的には、真光が今の私を育ててくれたようなものです。

私は今の私を受け入れています。私は今の自分が好きです。真光に入信したことも含めて自分の過去を受け入れました。今の自分を受容し、承認しています。

真光にいた過去を許すことは、自分自身を許すことです。
真光を許せないのは、自分を許せないからです。

神様はカルトが嫌いなんだということが分かりました。あの神風はきっとこの小さなブログを応援してくださったのでしょう。

かつての私や現役信者の母は、真光の真っ黒な霧に覆われています。闇の中では何も見えず考えることができませんでした。

このブログが、ねじ曲がった教えでねじ曲がった道をさまよう人たちのための灯明となりますように。

私の感謝:災い転じて福となす。

不幸が起きても、それが単なる不幸のままで終わるとは限りません

人間関係でもめたけど、誤解が解けたし自分の悪いところも反省した。
相手の浮気で大好きな人と別れて、毎日泣いて暮らしていたけれど、よく考えたら暴力は振るうし借金癖のある人だった。
事故に遭って出費は多かったけどケガはなかった。
会社をクビになったけどあくどい商売だったし、転職したらやりがいのある仕事につけた。

「結果的にはよかったな」ということありますよね。

失うことでしか得られないこともあります

病気になって初めて健康のありがたみが分かる。困ったときにいろんな人たちに助けてもらってありがたかった。詐欺被害にあったけど対策を学んだから、他の人にも教えたい。自分が傷つけられたから、傷ついた人の気持ちが分かるようになった。当たり前のことだと思っていたことが実はとてもありがたいことだと気づけた。

自分の短所を改めたり、発見したり、目標ができたり、成長したり。人は不幸になっても、その経験から学び取ることができます。

そうして、「当時は大変だったけど苦労してよかったなぁ」と感謝します。

私はちまちまと真光から攻撃された話を書いています。もちろん私も聖人君子ではありませんので不幸の最中は「イヤだなあ、苦しいなあ」と思います。「もうだめだ」と絶望的な気持ちになったり、大事なうしおさんとの絆にヒビが入ることすらあります。

でも、そのたびにもっともっといいことが起きるのです。

より深くお互いを理解しあって絆が強くなります。ふと「真光の教えの意図って本当はこういうことなんじゃないかな?」と着想を得たりすることもあります。
頭を使って考えるのが大事です。

今回はかなり深い痛苦がありましたが、骨身に堪えたからこそ感謝もできましたし、今この記事を書くことができるのです。

困窮する私を必死に助けてくれた人たちがたくさんいました。彼らは優しく私を受け入れて、気持ちに寄り添い、あるいは確かな技能で疼痛を取り除き、この道の先に光はあると教えてくれました。
とても尊い、美しい心の持ち主たちです。

私は人の善意を、愛を、専門家の知識や技術のすばらしさをこの肉体で覚えることができました。それは大きな痛みを受け入れなければ決して体得することができないものでした。

災い転じて福となす

痛みや苦しみ、出費、悩み、絶望。
真光が与えてくれた苦しみのすべてが、よいものに変わりました。
真光信者だったとき、真光の考えがしみついていたときに、こういう考え方はできませんでした。不幸はただの不幸のままで終わってしまい、そこから何かを悟るということができませんでした。真光がそうさせないように洗脳するからです。
何かを考えようとすると黒い霧に覆われて、言いようのない恐怖を感じて思考が止まりました。

私はもはや真光を攻撃するつもりがありません。その必要がないからです。
もう彼らの攻撃に対して怒りや憎しみを持つ必要がありません。一時的には私を苦しめても、必ず乗り越えて大きなものが得られるからです。

真光にはちょっとだけ感謝しています。回り道はしましたがうしおさんにも出会えました。別人のように運が良くなり、去年ぐらいからいい人にしか出会っていません。
私は人を信じることができます。私は私の悪いところを受け入れました。

すでに真光は、私にとって親戚のおじさんくらいのポジションです。顔を見たらとりあえず説教するけれど、最終的には「がんばれよ」と肩を叩いてお小遣いをくれる人のようなものです。

例えば先日も「このブログのデータが入ってるUSBを水没させろ」とか「ブログ全部削除しろ」などの邪念を感じました。
「デジタルデータとはいつ消えてもおかしくない、はかない情報だ」という事実を思い出してバックアップを三重に取りました。そんなもんです。

転んでもただでは起きない

不幸なことはつらくて苦しい「だけ」で終わるとは限りません。そこから得られるものが必ずあります。

痛みや苦しみそのものに感謝するとそこでストップしてしまい、肝心の学びが手に入らなくなるのです。

学ばないようにし向けているのは誰でしょうか?
学ばないことで誰が喜びますか?
それによって苦しむのは誰ですか?

あなたの感謝とは罪悪感を消してくれる罰のことですか?
それとも全身が喜びに満ちるしみじみとしたありがたさのことでしょうか?

あなたの人生は、誰のものですか?

真光式感謝

真光の教えの「痛みに感謝」って変ですよね。マゾヒストじゃあるまいし、痛みや不幸そのものに感謝できるわけがありません。
確信をもって言いますが真光は感謝が大嫌いです。よってそんなきれいな気持ちは信者に持ってほしいわけがありません。

真光が言う感謝とは?

真光は一方的に先祖や前世などの罪を背負わせておいて、「不幸現象(ミソギ)でそれを消してやるのだから感謝しろ」と言います。まるでヤクザの言いがかりではありませんか。

神道における「禊(みそぎ)」とは水で洗い清めること。参拝する前に手を洗い口をすすぐことも簡略化した禊です*1
本殿にお参りしたときは心身の罪穢れを祓うために、神職の方が祓詞(はらえことば)を奏上し、大麻(おおぬさ)*2や塩湯などでお祓いをします*3

禊は死者の国である黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命(いざなきのみこと)が心身についた穢れを祓うために海で禊祓(みそぎはらえ)を行った神話が元になっています。
服を脱ぎ払う祓えと海水に身を浸す禊だそうで、やはり不幸や苦痛で罪を消すという話は出てきません。

なぜ禊祓がミソギハラヒに変わってしまったのでしょうか?

真光が教えるのは、勝手に押しつけた罪の意識につけこんだ偽物の感謝です。真光の意図としては罪悪感を盾にしてノーガードで不幸を味わえということです。

あら不思議。いつの間にか感謝が罪悪感にすり替えられています。カルトはよくすり替えたりねじ曲げたりします。

罪悪感は「罰を受けたい、償って許されたい」という気持ちにつながります。不幸現象で罪悪感を消すことが目的になり、感謝がどこかに消えてしまいましたね。罰を与えられること自体が目的になり、経験から気づくこともなく、学ぶこともできなくなるのです。

痛みに感謝して不幸そのものに注目してしまうと肝心のことに気づけません。「痛い=ありがたい」で思考が止まるのです。よく考え抜かれた教え(罠)だなぁと感心します。

「痛みに感謝」とは、「本当の学びからは目をそらせ」という意味なのです。

当然、自然に感謝がわきあがるような考え方は教えてくれません。そんなものは「真光の神とされるもの」は喜びませんからね。
真光が不幸にこだわるのは、その苦しみの怨嗟が彼らの栄養分になるからです。


神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』