死後の世界
あまり取り上げたことのない死後の世界が今回のお話です。
さて、一般的な古代ギリシアの神話と、このゲーム「ハデス」では死後の世界観が全く異なっています。
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一般的な古代ギリシア神話は現世利益主義
- 現世利益主義とは「死んだらそこで終わり」
- 神々との関わりやご利益は生きている間のみ受け取れる。
- 死後は天国や地獄もなく、善人も悪人も関係なく全員がハデスの館で暗い影になる。
- 冥界に関心がないのでほとんど描写もされない。
ザグレウスの神話では輪廻転生
- 生は絶対ではなく、魂は永遠に続く。
- 冥界からその魂が地上にもう一度戻ってきて、いろんな未来に向かって魂が転生していく。
- 魂の輪廻を断ち切って最終的に神になる
- 死んでからが本番
- 死んだ後の世界こそが次の世界に繋がるものだから、冥界が詳細に描かれる。
ゲーム内ではこの二つの考え方がブレンドされています。
ハデスの館から出て、地上を目指す間――つまり人生で――さまざまな神と出会い、功徳を受けます。道中手に入れた功徳とお金は死亡時にすべて失い、ハデスの館に戻されますが記憶は残っています。
つまり何度も死んでは繰り返し地上への脱出を目指し続ける輪廻転生の物語です。
ハデスの館ではキャラクタとの会話できます。つまりここでしかメインストーリーが進行しないので、まさに死後が本番。
道中に得た闇の結晶などでザグレウス自身や武器を永続的に強化します。
また冥界を工事し、例えば回復できる水場などの設備を設けたりします。つまり来世に向けての大事な準備です。
さて、ここからが本題。
2つの死後観
この「一般的な古代ギリシア神話の冥界観」と「ザグレウス神話の冥界観」は何かに似ていませんか?
ザグレウスの神話の「輪廻転生」は日本人にとってはさほど違和感はないでしょう。
生前の行いによって、地獄に落ちたり極楽浄土へ行けたり、というのは仏教の考え方です。
では古代ギリシアの冥界観はどうでしょう?
私は神道の死後観に似ていると思いました。
黄泉の国についてはイザナギ・イザナミ神話などに登場するものの、「見るだけでも穢らわしい不吉な国」ぐらいの描写しかありません。
イザナミの遺体の様子は膿や虫がわき
「死後、人間の魂は行いの善悪にかかわらず、すべて『
黄泉国 』に行くとし、『黄泉国』のことについては細かい詮索は無用である*2」
としていました。
「死んだら善人も悪人も皆ハデスの館に行く」と同じ考え方ですね。
ちなみに宣長は「儒教などの中国的な思想を取り除いて、ありのままをありのままに受け入れる大和心に立ち返るべき」という人なので、地獄や極楽といった仏教的思想も排したのです*3。
では「生前の行いによって、死後に行く世界が極楽か地獄になるかが決まる」という考え方は神道に全くないのか?
というとそうでもありません。
平田篤胤 の幽冥 観
平田篤胤は師である宣長の「死ねば皆黄泉の国へ行く」という考え方を批判しました。
たとえ古学者であっても、いざ死に直面すると極楽往生を願い仏にすがろうとする。死後の魂がどこに鎮まるかを知るのは重要なことだ。「死後は善人も悪人も皆暗い黄泉の国に行く」というのは多くの人は受け入れられない。古い伝説や体験からしてもそんな説は誤りだと批判しました。*4
篤胤は、死後の魂はこの世にある「幽冥界」へ行くと主張しました。これは具体的にはお墓や神社を指します。
「幽冥界は生きてる者には見ることができないが、幽冥界からはこちらの世界を窺うことができ、我々は死ぬと幽冥界に行き、子孫や縁者を常に見守り援助しているとしたのです*5」
これも「日本人が古くから持つ素朴な霊魂観」ですね。
篤胤は、善人の魂は
幕末になってようやく「死んだら魂はどこに行くか」の話をしていますが、それ以前はどうだったのでしょうか?
平安から鎌倉時代まで、幽霊や妖怪などの観念はあるものの、神霊や人間の魂が住む他界についてはあまり文献が多くないそうです。
仏教の極楽、地獄、浄土や魔界の観念が広まった分、高天原、幽界や
日本神話の黄泉国とギリシア神話の冥界の類似についてのお話でした。
日本神話とギリシア神話には多くの共通点がありますが、そはれはおいおい記事にしていきましょう。
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参考・出典
神社検定受検予定の方は進捗いかがですか?
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