真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光は必要悪?

カルトの光と闇

ホリエモンこと堀江貴文が真光に言及していました。

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元信者の方の話をうまく分かりやすくまとめています。
知らなかったんですが、ホリエモンって結構宗教に詳しかったですね。

私も脱会した当初は真光憎しではあったんですが、今となってはもう彼と近い考え方です。
「これはもう、仕方がない」としか言いようがないですね。

もちろん不安につけ込み、脅して金を出させたりというのは論外なのです。
でも、酒やギャンブルに溺れて命を失ったり、人生を破壊されたりすることもありますよね。
有害なのに、(法律である程度の規制はあっても)根絶はされていません。

ほどほどの搾取なら、それはそれで商売として認めていくべきなのではないかと。

もちろん周りで巻き込まれる人、特に抵抗できない子供はかわいそうだと思います。
児童虐待心理的なものやネグレクトも含めてケアするべきで、信仰だからといって免罪されるべきではありません。

他人のケアなどしたくない

当たり前のことなのですが、困った人や不幸な人の相手をするのは本当に大変です。
かわいそうな人は助けられるべきなのは当然ですが、それは多大なエネルギー、お金や手間やモチベーションが必要です。

かわいそうな人は「理想的なかわいそうな人」を演じてくれません。
不幸になると世間を恨み、時には罪を犯したり、助けてくれそうな人に全面的に依存しすぎたり、傷つけようとしたりすることもあります。

もっと言えば、どん底にまで落ちてもなお、誰も手を差し伸べたくないような人もいます。

そんな人たちにまで手を差し伸べてくれるのは、どんな人たちでしょうか。
とても善良なやさしい、いい人でしょうか?

さみしい人、不幸な人は話を聞いてもらいたがりますが、それは本当に大変疲れることです。
ここのコストがどれだけ多大なものなのか、ということをまず頭に入れてください。

自分だって他人に対してやっていないですよね?
それが答えです。

人間関係には対価が必要

それは金銭のことだけではありません。
仲良く楽しく過ごすことや、お互いに優しさを与え、助け合いをすることです。
共通の趣味で盛り上がるとか、一緒にご飯を食べたり、たまに愚痴を聞いてもらうとか、そういう普段の人間関係そのもののことです。

それがないのに親切にしてくれるのは、なぜですか?
(ちょっと困ったときに手助けしてくれるのは人として当たり前ですが)

でも、長々と話を聞いてもらおうとするのは、かなり違ってきます。
確かにそれをしてくれるいい人もまれにいますが、例外と思ってください。

ここで対価の話に戻りましょう。

宗教を広めることや勧誘することは、彼らのノルマです。
確かに、相手の幸せを願って入信を勧めているので悪気はないかも知れません。

でも、入信という対価は発生していますよね。

あなたの悩みを聞くこと、助けること、気持ちに寄り添うこと。
その多大な労苦に対して、やはりそれなりの対価を支払わなければなりません。
対価というと印象がよくないかも知れませんが、これは「困ったときはお互い様」の気持ちということです。

人から救って欲しいのなら、自分も人生を差し出すくらいの覚悟で同じくらいのものを支払いましょう。

人生に向き合えない

確かに宗教に超どハマりして人生が崩壊するような人は、心が弱い人でしょう。
でも、それを指摘して何になるのでしょうか?
それで何か事態が好転するのでしょうか。

批判する暇があるのなら、その人に寄り添って話を聞いて共感して、宗教が必要なくなるまで愛してあげればいいんですよ。
人助けって、そういう泥水をすする覚悟がいるんです。
unlearn-mahikari.hateblo.jp
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