真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光こんなにヒドイ! が駄目な理由

真光批判の罠

感情的になる

だまされたことに気づいて、まずは怒ったり悲しんだりするでしょう。
人間ですから恨んで当然です。

しかしあまりにも長期間、感情的になり続けると心身によくありません。
涙を拭いたら立ち上がりましょう。もうどこにでも行けるのですから。

そろそろ日本人女性の平均寿命も90代になろうとしています。数十年単位の回り道もそれほど致命的な無駄ではありません。

過去に戻ることも変えることもできないのですから、恨みを燃やし嘆いたところで無駄な感情のコストを支払ってるだけです。
人が苦しんでるのを見て喜ぶような神が満足するでしょう。

復讐という正義

復讐とは、正当性があると確信できる暴力です。
発散は必要ですが、怒りは怒りを呼びます。
暴力は振るってもたいしたストレス解消になりません。
アルコールやギャンブルと同じように「やらずにはいられないこと」であり、依存症だと思います。

誹謗中傷や物理的な暴力ではなく、損害賠償など正当な法に基づいた復讐を選択しましょう。
人類は個人間の復讐を捨てて、第三者に委ねて公平な処罰を下すこと選択しました。
復讐の連鎖や弱肉強食を避けるためです。

むしろ誹謗中傷なんぞで何かやったような気になってしまうことの方が危険です。
何を見失っているか分かりますか?
それが真光の罠です。

脅しは無意味

「真光はこんなにひどいところだ、恐ろしいところだ」と恐怖をあおるような言い方も、やり過ぎれば逆効果になると思っています。

脅して不安にさせるのはカルトの手口です。
unlearn-mahikari.hateblo.jp
カルトからの救済を目指すのなら、同じやり方を取るべきではありません。
今感じている恐怖よりももっと強い恐怖を与えてコントロールするのって倫理的にどうなんでしょう?
もっと強い脅しをかけるカルトが現れたら、その人はそちらに流れていくでしょう。

つまり問題は何も解決していないのです。

もちろん被害者を救いたいという善意から、必要以上に真光への誹謗中傷や恐怖で脅すようなことを言ってしまうのでしょう。
正義は暴力の免罪符です。

ただ、「私はつらかった」とだけ言おう

「真光批判しちゃいけないの?」
「誰かが今も傷ついているのに放っておくのか?」

人間は誰かを責めるとき、相手を主語にする傾向があります。
「お前のせいだ」「あなたがああ言ったから」「真光に大切なものを奪われた」

これは文字通り主役が自分ではない状態です。それが被害者意識の問題点です。相手の言動にただ振り回されて、自分で自分の言動を選択できていません。
「ああされた、こうされた」というのは現実に対して受動的です。それはただの反応です。

相手が何をした、どう言った、はそれほど問題ではありません。それはすでに起こった過去のことなのですから。
今から自分が何をどうするかが課題なのです。

具体的な話をしましょう。
真光で起きたことや受けた仕打ちを語ることには何の問題もありません。
愚痴をどこかに記録するだけで、それは信者予備軍へのワクチンとなるでしょう。

ただ語るときに少しだけ意識してほしいのです。
「私は真光でこんなことがあってつらかった」と自分を主語にすることを。

些細な違いに見えるかもしれませんが、このようなことで少しずつ「自分の人生を生きること」を取り戻していきましょう。