カルトの本を時々読むようになりました。
神社検定で神道の勉強もしています。
- 作者: 井上順孝
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- 発売日: 2009/04
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- 出版社/メーカー: 幻冬舎
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宗教学者の言うとおり、「カルトと正しい宗教に境目はないのだなぁ」と思っています。
知れば知るほど難しい、というのが正直な感想です。
教えの正邪や真贋というのは、安易に決められるものではありません。
十字軍だって当時は正義だったのと同じように、今は非難されているテロリストが100年後に崇拝されてるかもしれません。
未来のことは誰にも予測できないのです。
神のためにつくして迫害された人は、同じ宗教の信者から見れば立派な人ですが、端から見たらバカな人、あるいは搾取されているかわいそうな人でしょう。
さて、本人がやりがいを感じているからといって、搾取を正当化してよいのでしょうか?
しかし、つくすことをやめさせれば、生きがいを失うかもしれません。
それでは、宗教活動のために誰かを犠牲にすることはどうでしょう?
身近な人を犠牲にして、たくさんの信者(あるいは非信者)がよりよい人生を送れるのだとしたらどうでしょうか?
特定少数の人間を犠牲にし、多数の人間に利益をもたらすことは善でしょうか?
どう見ても搾取されている信者を、信仰から引き剥がすのは正しいでしょうか?
信仰というのは人間のアイデンティティの重要な部分です。本人の中に溶け込み、同一化しています。
無理矢理やめさせたりすると、一緒に本人のアイデンティティもなくなります。
わかりやすく言えば本人の精神に大きな穴が空くのです。
そこを埋めるのは酒やギャンブルでしょうか?
行きずりの関係を繰り返すことでしょうか?
より危険な思想・信仰でしょうか?
新たなやさしい搾取者でしょうか?
だから単に論破したり、インチキの証拠を見せつければよいというものではないのです。
ネットの真光批判が残した功罪は大きいと思います。