真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

蒙古襲来と神国思想

神国の始まり

神国とは、日本は神が開き神によって護られている国という考え方です。
蒙古襲来と神風をきっかけに強まるとされますが、それ以前からも神国思想はありました。

「日本は神国」の初出は古く、なんと日本書紀です。
神功皇后三韓東征、新羅王の言葉として「(われ)聞く、東に神国有り、日本と()う」とあります。*1

源頼朝の神祇行政

「我が朝は神国也」*2

頼朝は神祇への信仰が篤く、社領安堵や社殿の修造に力を注ぎました*3
頼朝の神祇に対する崇敬心や態度は、"一般民衆のそれと隔離したものではなく"、この時代の神祇思想の基礎といえます*4

北条時宗時代の鎌倉の人々は、"宗教を抜きにしては一日として暮らしてゆけない、いわば宗教的な人間だった"のです*5

頼朝の姿勢は以降の鎌倉幕府に受け継がれ、「御成敗式目(1232年)」にて「神社を修理し、祭祀を(もっぱ)らにすべきこと」「神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う」と述べるに至ります*6
unlearn-mahikari.hateblo.jp

蒙古の国書「仲良くしようぜ」

フビライは日本に通交を求めようとして国信使を派遣しました。初回は蒙古の使者が日本に行く予定でしたが、波浪が激しく海を渡れなかったので中止。
2回目は高麗に国書を持たせて日本に行かせることにしました。

蒙古国国書到来

文永5年(1268年)正月、フビライからの国書を持った高麗使節が九州の大宰府に到着。
「今後は両国の関係を築いて、親睦したい」というのが主旨で、蒙古国としては相当に丁重な文面でしたが、日本には到底受け入れられないものでした。

モンゴル国皇帝から日本国王宛てになっている
日本は本来ならば中華の「皇帝」に対して、「王」と称して臣として礼を執るべきでしたが、そこをあえて「天皇」と称しました(対等の礼を執るというのは無礼なことでした)。*7
そんな"態度の尊大な日本"に対して"蒙古自ら皇帝と称し、日本国王に諭すという形式"の国書は返書に値しない無礼なものでした。*8

・すでに服属させた高麗との関係を「君臣の関係」「親子のように親しい」
と上下関係を強調。
・「兵を用いる(戦争をする)ことはどうして誰が好むところであろうか」
と脅した。

高麗の国書

高麗国王の国書も添えられており、フビライの徳の高さを述べ「決して日本からの朝貢を期待しているのではなく」「返事を得たら必ず(皇帝は貴国を)厚くもてなすであろう」と蒙古国に使節を派遣することを勧めました*9

返牒交付せず

高麗使節は5ヶ月も留め置かれましたが、返牒(返書)は交付されませんでした。
それどころか日本は蒙古と高麗の国書を受理せず、持参した幣物まで返却したのです。

敵国降伏の祈祷

朝廷は異国降伏・退散の祈祷を多く行いました。
現代人にとって祈祷は気休め程度に思えるかもしれませんが、当時は現実的な対策の一つだったのです。
同年3月、朝廷は徳政として、神社の所領のうち、他人の手に渡ったものを返還する政策をとりました。

対馬民の拉致

翌年の文永6年(1269年)2月。蒙古と高麗の使節対馬に渡り、前年の返牒が得られなかった理由を聞こうとしました。
しかし対馬の島民と喧嘩になり、九州に渡ることすら出来ませんでした。
使節は島民の塔二郎と弥二郎の二名を捕らえ、蒙古国まで連れ帰ります。
二人はフビライに謁見し、「日本国の来朝を欲している」と述べました。島民達は大いに歓待され宮殿や都城を見学しました。

同年9月に対馬の島民二名を無事送り返した折りに、中書省(モンゴルの中央政府)の牒状と高麗の国書を渡します。

幻の返牒

文永7年(1270年)朝廷は返牒を作成しましたが、幕府が拒んだため使節には渡されませんでした。

この幻の返牒の内容は、まず唐突に兵を用いると脅したことに対して、
"皇帝の徳と仁義を説く国が、どうして聖人や釈迦が非難する殺傷の源、すなわち戦争をするのかと論理的に批判し*10"ました。
"天照皇大神(あまてらすおおみかみ)から日本近皇帝(天皇のこと、当時の天皇亀山天皇)に至るまで聖明およばないところはなく、百王の鎮護は明らかであり、四方の異民族をおさめ鎮めること少しの乱れもないと述べ、そのため皇土(日本のこと)を長く神国と称するのであり、日本と智を競ったり、力で争ったりすべきでないと主張し*11"ました。
論理的に批判し、日本を神国と示すことで諦めさせようとしました。

断固たる決意を示した文面でしたが、”世間には、返牒を発すると聞いて、異国の威勢に屈したかと、朝廷の態度の軟弱さを嘆き、怒る者さえあった*12"そうです。
返事を出すことのハードルが高く感じますが、「外国からの書辞に無礼に表現があれば、断固としてはねつけ、返書も与えなかった*13」とあるのでこのときばかりではないようです。

敵国降伏祈祷に熱心だった禅僧

東厳慧安(とうがんえあん)も異国降伏に熱心だった僧の一人で、その祈願文には

「願わくば神明、国民の五体の内に入り、蒙古の敵を討ち滅ぼさせしめ給い、神は雲となり、風となり、雷となり、国敵を摧破せしめられんことを*14

とあります。
当時の人々は神様も戦地に赴いて、神通力で戦ったと考えていたのです。

そして実際に戦った武士が恩賞を求めたように、神社や寺も恩賞を求めました。

おまけ
今回は話が硬かったので、ジンギスカンモンゴル語バージョンをどうぞ。

モンゴル音楽:チンギスハーン (ジンギスカン)


The HU - Yuve Yuve Yu (Official Music Video)

主な参考・出典一覧

神社のいろは続

神道史概説 鎌田純一
神道史概説

神道史概説

日本の中世9 モンゴル襲来の衝撃 佐伯弘次
日本の中世 (9)

日本の中世 (9)

  • 発売日: 2003/01/01
  • メディア: 単行本
蒙古襲来元寇の史実の解明 山口修大系日本の歴史5鎌倉と京 東京大学教授五味文彦図説北条時宗の時代 佐藤和彦・錦昭江編青年執権・北条時宗と蒙古襲来
青年執権・北条時宗と蒙古襲来

青年執権・北条時宗と蒙古襲来

catalog.lib.kyushu-u.ac.jp

unlearn-mahikari.hateblo.jp
unlearn-mahikari.hateblo.jp
unlearn-mahikari.hateblo.jp

*1:神社のいろは続P103。しかし、古代ではあまり使用例が少ないので一般的な考え方とは言えません。 「神国」という言葉の使用が増えるのは平安中期以降です。

*2:鎌倉幕府の歴史書吾妻鏡』の「諸社のこと」

*3:神社のいろは続 P90-91

*4:神道史概説鎌田純一。P177~178

*5:北条時宗の時代P88

*6:同P94

*7:隋や唐の時代も朝貢はしていましたが、必ずしも朝貢の礼にかなったものではありませんでした。蒙古襲来 元寇の史実の解明P48-49

*8:蒙古襲来元寇の史実の解明P53

*9:モンゴル襲来の衝撃P63

*10:蒙古襲来の衝撃P71

*11:同上P71-72

*12:蒙古襲来史実の解明P87

*13:同上P74

*14:歴史よもやま話蒙古襲来 白石一郎P186-187