真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

初代光玉=イエス・キリスト説

「tenは気でも狂ったか」と思ったかもしれないブログ読者と真光信者とキリスト教徒のみなさまいかがお過ごしですか。不謹慎を恐れてカルト批判はできません。

もうずいぶん前から、私とうしおさんの中で光玉氏のことは「害のないおもろいおっさん」という結論が出ています。酒を飲んだら楽しそうとすら思います。

真光の元ネタはキリスト教

うしおさんが言うには神道以上にキリスト教の影響が強いそうです。

手かざし

なんといっても手かざしで病気を治すところですね。
真光の初級研修では「イエス・キリストは手をかざして病気を治した。真光で小イエスになれると」と習います*1

聖書は手元にないので福音書を読んでいますが、イエスは病気治し以外に除霊・悪魔祓いもしています。イメージほど手をかざしているわけではないですが、マルコ6.5では「手をのせて、なおされた」*2とあるのでかつての救世教の浄霊のように手で触れる治療だったのでしょうか。

意外と基本的なことを失念してしまうのですが、このように元ネタはキリスト教です。イエスは宗教画ではだいたい手をかざしてるイメージがありますが、手元の芸術新潮2017年8月号にはそういう絵は掲載されていないので、真光の刷り込みかもしれません。

芸術新潮 2017年 08 月号

芸術新潮 2017年 08 月号

架神恭介が言うように、キリストはきっと気のいいロックなあんちゃんだったのでしょう*3。罪人や売春婦、税金取りという当時の被差別民に優しかった。その時代で言えば反社会的な行為だったでしょう。

光玉氏にしても、統計上に有意の差はなくても体感では手かざしの効果を感じていたでしょう。案外悪気はなかったかも知れません。

改竄と神格化

二代目以降教えが改竄されていることが明らかになり神格化される傾向にあります。後世の人々が話を盛ってしまうのは真光もキリスト教仏教と変わりません。

終末思想

世界の終わりがきそうな気がする人はいつの時代もいるようで、キリストの時代にもありました。天変地異だの戦争だので世界が終わる頃にメシアが現れるというのはキリスト教だけでなく仏教でも末法思想がありますね。

表現的にはキリスト教が元ネタのような気がします*4
ゾロアスター教にもあるそうなので*5、単に人がよく抱くディストピア願望的なものかなと思います。

さきがけのメシアや救い主というのもキリスト教の影響でしょうね。

地獄に落ちる

ゲヘナという言葉は初級研修で出たと思いますが、これもキリスト教の言葉です。
エスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネも、悔い改めないと「火の中に投げ込まれる」と説いています*6
対比するように「わたしは悔改めのために水で洗礼を授けている(マタイ3.11)」とあるので火と水という組み合わせもここからでしょうか。
洗礼という言葉も「その方は聖霊と裁きの火とで洗礼をお授けになる(同3.12)」からきています。

また真光では「ゲヘナは魂さえも焼いてしまう」と脅しますが、これもマタイ10.28「体を殺しても魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことの出来る方を恐れよ」とあります。

信者になっても安心できない

初級研修で真光信者になっても火の洗礼を免れられるとは限らないと脅されます。

これも洗礼者ヨハネが、洗礼を受けに来た大勢のパリサイ人とサドカイ人に「蝮(まむし)の末ども、わたしから洗礼を受けて来るべき神の怒りの裁きを免れるようにと、だれがおしえたのか。本当に悔改めたのか。それなら洗礼を受けるだけでなく、悔改めにふさわしい実を結べ。『われわれの先祖はアブラハムであるから大丈夫だ』などと考えてはならない(3.7)」と言ったことが元かも知れません。

元の文を読むと儀式さえをやってりゃ大丈夫と思わず、ちゃんと日々の行動に表しなさいよという意味なのが分かりますが、真光式だと入信しても心が安まらない感じしかしませんね。

宝を地上に積むな。天の倉に積め

善行や祈りは人の目につくところでこれ見よがしにやるんじゃなくてこっそりやりなさいよ。相手は天の父ですよと説いてるのですが、これも真光になんかあった気がします。
神様に貯金でしたっけ? 本当に思い出せないので誰か教えてください。

身内は入信しなかった。

光玉氏には妻子がいましたが入信することはなかったと言われています。
エスも生地ナザレで教えを説いたものの耳を傾ける者はなく、「預言者が尊敬されないのは、その郷里と親族と家族のところだけである」と人々の不信仰に驚いたとあります(マルコ6.1-6)。

悟り

またイエスは喩えをよく使い、弟子が意味を理解しかねると「まだ悟らないのか」と言います。
真光もサトるサトると言います。差を取るからサトリと言っていましたがどういう意味なのは思い出せません。覚えてる方がいらしたら教えてください。

神の子

真光でも「神の子、人」という言い方をしますが、福音書でも人の子とか神の子という言い方をします。
神道でも神様は人間の親ですよという言い方はするのですが、肝心の人間の誕生は神話になく、いつの間にかいます。神様が人を作ったという世界観はキリスト教よりだと思います。

人を裁くな

これも聖書から来ています。道徳的な教えは割と聖書ネタが多い気がします。

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書福音書塚本虎二訳のあとがきによると、昭和初期には口語訳聖書はなく、文語体だったそうです。当時の人にとってもそれは理解しにくいものでした。

塚本氏は口語体に改訳したものを昭和5~6年から個人雑誌に掲載を始め、14年かけて完成させました。
威厳がないという批判を受け「結局宗教の経典は意味はわからずに朗読されるものを聴聞し、暗記するに便利なように出来ているのである」と述べています*7

その後各所から口語訳が出版されました。昭和25年にカトリックから新訳、27年にキリスト新聞社から新訳、28年に塚本氏のマルコ福音書、29年に日本聖書協会から旧約新訳。
そして真光は昭和35年頃です。つまり普通の人にとって意味が理解できる口語訳が常識となったのちの立教です。

イエス・キリストと光玉氏の共通点

実は本当に一つだけこの二人に共通項があります。
それは冤罪です。

*1:入信前のキャッチコピーかも?

*2:

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

*3:

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

*4:

かわいい☆キリスト教のほん

かわいい☆キリスト教のほん

P25

*5:同P40

*6:マタイ3.10

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

*7:同書P415

真光の罠:人格攻撃

Fさんは真光批判サイトを立ち上げるのは面倒くさいので、真光批判系の掲示板に投稿するようになりました。ときおり現役の信者が乱入することがあり、そんな彼らを「論理的に」打ちのめすのがFさんの喜びでした。

教義の矛盾やパクリ、手かざしのインチキ、教祖のセクハラ、二代目は妾などの事実を突きつける瞬間は大変気持ちのよいものでした。

Fさんは自分を論理的で賢い人間だと思っていました。何しろ自分は批判サイトを見て目を覚ましたのですから、頭の良さに自信を持っています。信者のことは「頭や心が弱いから宗教にすがりつくダメな人間だ」と思っています。

今日もFさんは自分の正義を信じて掲示板に書き込みをします。

「信者は欲の皮がつっぱってるから、あんなインチキの御利益宗教に騙されるんだよ」
「ブサイクおばさん」
「ネットで検索したら真光のパクリもインチキもすぐに見つかるのに、いまだに信じてるなんて頭悪すぎでしょ」
「信者なんて悪口、いじめ、セクハラばっかり。教祖様がセクハラオヤジだから信者もそうなるんだよ」
「いい大人がダジャレ教義まじめに信じてバカみたい」

Fさんは今日も信者の人格否定を正義だと確信しています。
論破して相手を黙らせ、去らせることが勝利だと信じています。
教義や教祖を批判することが真光の攻撃になると思いこんでいます。
信者の信念を折ることが真光を弱らせると勘違いをしています。

そんなFさんを見て真光の神とされるものは声を押し殺して笑うのでした。

真光批判は罠

Fさんのしたことはすべて真光を喜ばせることです。
真光を攻撃するということは、自分自身を攻撃することだからです。かつては真面目に信じていた過去を否定する行為です。自分の過去一部を切り離したり、なかったことにしたりできないのです。

人格攻撃に至っては単なる悪口です。
人格攻撃などしても信者はますます頑なになるばかりで、やめさせるのとは正反対に向かうばかりです。やはり真光の神の利益になります。これが真光の罠です。

過去は受け入れて、乗り越えましょう。
時計の針は戻せませんしタイムマシンもありません。どうにもならないことはどうにもならないのです。
私の好きな言葉は「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」です。

さぁ、これからどうします?

真光公式サイトについて語るうしおさん

うしおさんに崇教真光の公式サイトを見せてみました。
手かざしを人類に授けた理由のところに火の洗礼が近くて間に合わないからというくだりを見て、
「何十年もかけていたら間に合わないなんて浅はか。人間の人生なんてほんの一瞬でしかない。長い時間をかけてなんぼのもんだろう。自分さえ助かればいいという考え方は神様が嫌うはずなのにね」と言っていました。

書籍紹介:仁義なきキリスト教史

キリスト教史をヤクザパロディ

「おやっさん、おやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ! 」
磔刑にされるキリストが最期に残した言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」を広島弁ヤクザにした結果がこれだよ!

今回紹介するのは、出版当初SNSで一躍話題になり、神学という地味なジャンルで売れた「仁義なきキリスト教史」の紹介です。

仁義なきキリスト教史

仁義なきキリスト教史

お手頃な文庫版もあります。旧約聖書のエピソードが一章おまけで増えてるので文庫版がオススメです。

ちなみに気合の入った表紙イラストは田亀源五郎というゲイ漫画などを描かれている方です。

キリスト教って洋画でもモチーフになるし、知っておいた方がよさそうだけど聖書って難しくて何言ってるかわからない」という人向けです。
全編に渡ってしょうもないヤクザ抗争に譬えられて笑いが止まらなくなるので暇つぶしの娯楽にピッタリ。

クリスチャンの反応も様々で面白がったり、「だいたい合ってる」と評価されることもあります*1
ちなみにあとがきで、著者があることについて謝罪をしています。これは実際に本を読んで確認してほしいですね*2

聖書じゃなくてキリスト教の歴史

ちなみに聖書ではなくあくまでも「キリスト教史」ですので、キリストの話は案外少なかったりします。
教科書にも載っている十字軍や宗教改革カノッサの屈辱など。字面を見ると固そうですね。後半は血なまぐさいです。

芸術新潮 2017年 08 月号

芸術新潮 2017年 08 月号

「聖書の話をしてほしかった」という声があったせいか芸術新潮2017年8月号では「新・仁義なき聖書ものがたり 新約聖書ウルトラミラクル・ガイド」という特集を組んでいます。
絵画に描かれた聖書の物語という切り口で、やっぱり広島弁ヤクザ。

西洋絵画の一番格上は宗教画。古い名画とヤクザ言葉はなかなか新鮮な組み合わせです。芸術新潮はなかなかよい雑誌ですよ。

*1:当然怒ってるクリスチャンもいますが、キリスト教は娯楽に厳しいから仕方ないね。

*2:文庫版にもあります

結婚したい人が真光信者です

Q.「結婚を考えている相手が真光信者です。どうすればやめさせられますか?」

A.「別れるか、あなたが入信してください」

Q.「やめさせる方法を聞いているのですが?」
A.書き間違いではありません。別れるか、「あなたが」入信するかです。やめさせるという考えは捨てましょう。

Q.「ここっていつから真光をすすめるサイトになったんですか?」

A.うちは間違いなく真光脱会推進サイトです。
ですから「別れるか、入信するか」しか答えがないんです。

Q「何を言ってるか分かりません」

A.最悪なのが「結婚はするが相手の宗教を否定する」状態です。お互い不幸になります。
これぞ真光の罠
だから、入信するか別れましょう。

Q.「だから、お互いの信仰を尊重してうまくやっていく方法を聞きたいのですが?」

A.ありません。諦めましょう。
その理想の状態が叶う可能性は低いです。願望は願望でしかなく、現実ではありません。解っていても人は幻想にすがります。
unlearn-mahikari.hateblo.jp

相手は一人の人格です。
都合のいいところだけをつまみ食いと言うわけにはいきません。
信仰も含めて受け入れるか別れましょう。

Q.「婚約者は、自分に入信を強制しないと言っているのですが」

A.本心だと思いたいですよね。
「結婚したらあなたをなんとしてでも入信させるつもりです」なんて言ったら結婚を躊躇しますよね?
結婚したら気が変わるかも知れませんし、周りから入信させるように圧力がかかるかもしれません。可能性は常に残ります。

真光においてだまし討ちは悪いことではないとされています。あなたが寝ている間に手かざしをするかもしれません
その愛が憎しみに変わる苦しみを選択するか、愛しているのに分かれる苦しみか、どちらかを選ぶのです。

「婚約者は、真光に所属はしてるけど真面目に信仰はしてないと言っている」
正式に脱会しているわけでもなく、真光について真面目に考えたことがないかもしれませんね。

それは単にやめていないだけの状態です。
unlearn-mahikari.hateblo.jp

信仰への回帰

病気や失職、人間関係のトラブルなどの不幸が起きたとき、突然信仰に回帰するかもしれません。
真光を信仰しているというのは人生のほんの一部分というわけではありません。特に二世信者ならば生まれ育った環境に大きく影響があったでしょう。

自分に自信がなかったり、嫌なことを断れず搾取されたり、逆に選ばれし民だと傲慢になったり、常識が無かったり、学業や仕事や生活に必要なスキルを得られなかったり、愛情を注がれずに育ったり……
そのたくさんの業(ごう)を背負っている相手と生きることができますか? あなたにそれだけの「余裕」がありますか?

相手が女性信者なら、子供ができたときには実家に帰ったり親の手を借りたりすることが多くなるでしょう。女性の親は妊娠中から手かざしをするでしょうね。善意からしたことですから断りづらいでしょう。

産後は睡眠時間も少なく体力気力とも極端に落ちます。産後うつになる人も珍しくありません。不安な時期に信仰は強い支えになるでしょう。

信仰という部分は論理ではありません。理詰めではなく、非合理なお気持ちの世界です。
心が弱れば判断も鈍り、簡単に間違った選択をします。

信仰のことで口論も増え、溝が深まるほど更に宗教にのめりこみます。あなたもストレスでお酒や浮気、ギャンブルに走るかもしれません。
子供がいれば離婚も難しくなります。シングルマザーの貧困も非常に厳しいですが、男性の給与も落ちているため女性の収入を失うのは得策ではないのです。
両親の不仲は子供もつらいでしょう。

愛のない相手との結婚生活はかなりのストレスになります。
妻から虐待されている男性を複数知っていますが、ネトウヨになってヘイトスピーチをしたり怪しい宗教にハマったりしています。

もっとも痛みが少ないのが別れでしょう。
真光に入信するのもつらいですが、真光信者と結婚するのは地獄です。

すべてを受け入れる

「一緒にいられるならば、地獄に堕ちても後悔しない」
そう腹が決められたのなら、己の道を歩みましょう。
unlearn-mahikari.hateblo.jp

真光の元ネタは神道:幽世

幽世(かくりょ)という言葉があります。
真光でもたまに出る言葉ですね。霊界と幽界と現世? 三つ世界があるという設定でしたかね。あまり覚えていないのですよ。

この幽世という言葉の元ネタをご紹介します。
何のことはない、日本神話が引用元です。古事記日本書紀に載っている出雲大社のご祭神である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は国作りを完成させた後、天照大御神に国を譲り、幽世という見えない世界を治められます。

古事記(神話のおへそ)*1では「片隅の国」日本書紀*2第九段本文では「遠い隅の地」その一書第二では「神事(かみのこと)を治める」「幽事(かくれたること。幽れた神事)」という言い回しです。
神事と幽事は同じ意味で目に見えない神々の世界や、現世に対する幽世は霊魂の世界とも解釈されているそうです。

ちなみに大国主神は国を譲る条件として天日隅宮(あめのひすみのや)という宮殿を造営してもらいます。これが出雲大社です。

私が忘れたのか真光が説明していないのかは分かりませんが、幽世とは本来このような意味なのです。

トイレの神様設置編

お札の交換

トイレの神様のお札をいただいたので新しく貼り直しました。
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うしおさんが「トイレが力強い感じになったよ」と声をかけてきました。確かに護られてる感が昨年より強い気がします。

トラブルがあり、消耗して帰宅しました。
ストレスで何も手に着かなくなり、精神的に不安定になってうしおさんに連絡を取りました。
なんだか妙に暑いのです。エアコンの設定を間違えているのにぼうっとしていて気づかず、そのまま暑さで消耗してしまったようです。体は痛むし、疲れて何もする気が起きず、このブログどころか趣味にすら手を着けることができなくなりました。

ストレスで熱っぽいのか、夏風邪でもひいたのか。
ひたすらつらいつらいとうしおさんに言いました。うしおさんの人間力でなんとか成立していますが普通の人間だったらこんなに愚痴を聞き続けるのは大変だと思います。

異様に暑がるし、極端に語彙力の低い会話をしていたせいか、うしおさんが異変に気づきました。

記憶がない

トイレの神様の話になりましたがなんだか会話が噛み合いません。うしおさんがトイレにお札を貼った後に私が「お札が怖い」と言ったそうですが、まったく記憶にありません。

生き霊感あふれる話ですが、多分真光がお札を怖がったんでしょうね。漢字が難しくて読めませんでしたが烏枢沙摩(うすさま)明王様といって不浄を焼き尽くす仏様だそうです。

うしおさんに何度かうながされてようやく、神棚に祈って塩を額や体に擦り込んでシャワーを浴びたら何事もなかったようにすっきりしました。

うしおさんの霊感によると「昨日不動明王様にお会いしたので体内の真光を倒すために発熱したのだと思う」そうです。発熱してウィルスをやっつけるのと同じように真光が苦しんだのでしょう。

だから真光からの奇襲とはちょっと違うのだそうです。
「tenさんにまとわりついてる生き霊を退治したんじゃないかな」と言っていました。

このために呼ばれたのでしょうね。

うしおさんは「最近核心にせまる記事を書いたからだろうね」と言っていました。

もう一つ大きなきっかけがあると思います。
昨日私は真光に対して感謝したのです。

真光への感謝

当時は大変でつらい思いをしましたが、真光に入信させらされて脱会したことは本当によい経験になったとありがたく思っています。
人生でこれほど私を成長させてくれたことはありません。

私は(おそらく)誰もしたことのないやり方で批判をしています。
真光にきちんと向き合い、考え、乗り越え、許し、感謝にまで至ることができました。この私にしか書けないことがあります。憎しみだけを原動力にすると続きませんし、疲れます。
怒りで曇った目には映らないことや、思いつけないことがあります。

教義なんて適当なダジャレの産物ですよ。そもそも真面目に信じるようなものでもなければ、真面目に批判するほどのものでもないのです。

茶化して面白くしていた高丙文さんは正しい意味で批判していますよ。怒りで顔を真っ赤にするよりもずっと真光が嫌がりますからね。

真光を攻撃するのに有効だと思っているなされている批判の内、一部は真光に利益を与えています。真光の罠は非常に分かりにくいのです。
地獄への道は善意で舗装されているとはよく言ったものです。