真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光の罠:人格攻撃

Fさんは真光批判サイトを立ち上げるのは面倒くさいので、真光批判系の掲示板に投稿するようになりました。ときおり現役の信者が乱入することがあり、そんな彼らを「論理的に」打ちのめすのがFさんの喜びでした。

教義の矛盾やパクリ、手かざしのインチキ、教祖のセクハラ、二代目は妾などの事実を突きつける瞬間は大変気持ちのよいものでした。

Fさんは自分を論理的で賢い人間だと思っていました。何しろ自分は批判サイトを見て目を覚ましたのですから、頭の良さに自信を持っています。信者のことは「頭や心が弱いから宗教にすがりつくダメな人間だ」と思っています。

今日もFさんは自分の正義を信じて掲示板に書き込みをします。

「信者は欲の皮がつっぱってるから、あんなインチキの御利益宗教に騙されるんだよ」
「ブサイクおばさん」
「ネットで検索したら真光のパクリもインチキもすぐに見つかるのに、いまだに信じてるなんて頭悪すぎでしょ」
「信者なんて悪口、いじめ、セクハラばっかり。教祖様がセクハラオヤジだから信者もそうなるんだよ」
「いい大人がダジャレ教義まじめに信じてバカみたい」

Fさんは今日も信者の人格否定を正義だと確信しています。
論破して相手を黙らせ、去らせることが勝利だと信じています。
教義や教祖を批判することが真光の攻撃になると思いこんでいます。
信者の信念を折ることが真光を弱らせると勘違いをしています。

そんなFさんを見て真光の神とされるものは声を押し殺して笑うのでした。

真光批判は罠

Fさんのしたことはすべて真光を喜ばせることです。
真光を攻撃するということは、自分自身を攻撃することだからです。かつては真面目に信じていた過去を否定する行為です。自分の過去一部を切り離したり、なかったことにしたりできないのです。

人格攻撃に至っては単なる悪口です。
人格攻撃などしても信者はますます頑なになるばかりで、やめさせるのとは正反対に向かうばかりです。やはり真光の神の利益になります。これが真光の罠です。

過去は受け入れて、乗り越えましょう。
時計の針は戻せませんしタイムマシンもありません。どうにもならないことはどうにもならないのです。
私の好きな言葉は「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」です。

さぁ、これからどうします?