真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

私の感謝:災い転じて福となす。

不幸が起きても、それが単なる不幸のままで終わるとは限りません

人間関係でもめたけど、誤解が解けたし自分の悪いところも反省した。
相手の浮気で大好きな人と別れて、毎日泣いて暮らしていたけれど、よく考えたら暴力は振るうし借金癖のある人だった。
事故に遭って出費は多かったけどケガはなかった。
会社をクビになったけどあくどい商売だったし、転職したらやりがいのある仕事につけた。

「結果的にはよかったな」ということありますよね。

失うことでしか得られないこともあります

病気になって初めて健康のありがたみが分かる。困ったときにいろんな人たちに助けてもらってありがたかった。詐欺被害にあったけど対策を学んだから、他の人にも教えたい。自分が傷つけられたから、傷ついた人の気持ちが分かるようになった。当たり前のことだと思っていたことが実はとてもありがたいことだと気づけた。

自分の短所を改めたり、発見したり、目標ができたり、成長したり。人は不幸になっても、その経験から学び取ることができます。

そうして、「当時は大変だったけど苦労してよかったなぁ」と感謝します。

私はちまちまと真光から攻撃された話を書いています。もちろん私も聖人君子ではありませんので不幸の最中は「イヤだなあ、苦しいなあ」と思います。「もうだめだ」と絶望的な気持ちになったり、大事なうしおさんとの絆にヒビが入ることすらあります。

でも、そのたびにもっともっといいことが起きるのです。

より深くお互いを理解しあって絆が強くなります。ふと「真光の教えの意図って本当はこういうことなんじゃないかな?」と着想を得たりすることもあります。
頭を使って考えるのが大事です。

今回はかなり深い痛苦がありましたが、骨身に堪えたからこそ感謝もできましたし、今この記事を書くことができるのです。

困窮する私を必死に助けてくれた人たちがたくさんいました。彼らは優しく私を受け入れて、気持ちに寄り添い、あるいは確かな技能で疼痛を取り除き、この道の先に光はあると教えてくれました。
とても尊い、美しい心の持ち主たちです。

私は人の善意を、愛を、専門家の知識や技術のすばらしさをこの肉体で覚えることができました。それは大きな痛みを受け入れなければ決して体得することができないものでした。

災い転じて福となす

痛みや苦しみ、出費、悩み、絶望。
真光が与えてくれた苦しみのすべてが、よいものに変わりました。
真光信者だったとき、真光の考えがしみついていたときに、こういう考え方はできませんでした。不幸はただの不幸のままで終わってしまい、そこから何かを悟るということができませんでした。真光がそうさせないように洗脳するからです。
何かを考えようとすると黒い霧に覆われて、言いようのない恐怖を感じて思考が止まりました。

私はもはや真光を攻撃するつもりがありません。その必要がないからです。
もう彼らの攻撃に対して怒りや憎しみを持つ必要がありません。一時的には私を苦しめても、必ず乗り越えて大きなものが得られるからです。

真光にはちょっとだけ感謝しています。回り道はしましたがうしおさんにも出会えました。別人のように運が良くなり、去年ぐらいからいい人にしか出会っていません。
私は人を信じることができます。私は私の悪いところを受け入れました。

すでに真光は、私にとって親戚のおじさんくらいのポジションです。顔を見たらとりあえず説教するけれど、最終的には「がんばれよ」と肩を叩いてお小遣いをくれる人のようなものです。

例えば先日も「このブログのデータが入ってるUSBを水没させろ」とか「ブログ全部削除しろ」などの邪念を感じました。
「デジタルデータとはいつ消えてもおかしくない、はかない情報だ」という事実を思い出してバックアップを三重に取りました。そんなもんです。

転んでもただでは起きない

不幸なことはつらくて苦しい「だけ」で終わるとは限りません。そこから得られるものが必ずあります。

痛みや苦しみそのものに感謝するとそこでストップしてしまい、肝心の学びが手に入らなくなるのです。

学ばないようにし向けているのは誰でしょうか?
学ばないことで誰が喜びますか?
それによって苦しむのは誰ですか?

あなたの感謝とは罪悪感を消してくれる罰のことですか?
それとも全身が喜びに満ちるしみじみとしたありがたさのことでしょうか?

あなたの人生は、誰のものですか?