真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

ブログを始めて半年経ちました

早いものでもう半年です。

何にせよ継続するというのは大変なことです。
トラブルもありましたが、乗り越えたときには必ず得るものがありました。

うしおさんをはじめとして、多くの方々に支えられてこのブログは続けてこられました。
カルトから完全に抜けるために、色々な神様仏様からご加護をいただいています。無神論者を気取っていた私も、神様の救いを感じるようになりました。神社やお寺、教会やモスクに行くと気分がすがすがしくなります。

困難に打ち克つたびに、私は神様と人々の助けと愛を感じることができます。
人のやさしさと、神様のことをより強く信じることができるようになりました。

かつての私は真光や、自分を入信させた母親を強く恨んでいました。
「こんなはずじゃなかった」「たくさんのものを失った」「人並みの青春を送れなかった」「暗い性格になってしまった」「自分に自信が持てない」「何もかも真光のせいだ」「こんなカルトに入れた親が憎い」

やめてからも10年以上憎み続けていました。
オミタマを返したから真光をやめられたとは限らないのです。

「人を呪わば穴二つ」

他人を憎むということは、自分を憎むということです。他人を焼き殺すつもりで向けた怒りや憎悪は、必ず自分自身を燃やし尽くします。
とはいえ怒りで頭に血が上ってしまうと刺し違えてもよいと思ってしまうものです。

そんな憎しみに満ちたあなたを見て喜ぶのはいったい誰でしょう?
真光の神とされるものです。

怒りや憎しみを捨て去ることは負けたような気がするかもしれません。
それは真光があなたを焚き付けているのです。
「もっと憎め、怒れ、悲しめ、呪え、そしてその業火で己自身を滅ぼしつくせ」と。

怒りや憎悪は真光のエサ

真光を怒りや憎しみで攻撃しても何のダメージもありません。それどころか喜びます。
憎しみや怒りで心がいっぱいのときには、人のやさしさに気づかないかもしれません。コーヒーがおいしかったとか、空がすっきりと晴れてきれいだったとか、そんな小さな幸せに気づかないかもしれません。
不幸とは自分で作りだしていることも多いのです。

周りの人に恵まれないのは、いつもあなたが心に怒りを抱えているからかもしれません。
人間は他人に対して受容や否定のサインをなんとなーく出しています。
人間が好きな人は、他人に対して「あなたに興味がありますよ、好感を持ってますよ」という印象を与えるような言動を取ります。そういう態度を取る人を嫌いになる人は少ないです。だから人間が好きな人は「自分の周りにはいい人しかいない」と思っています。

真光で失ったものは取り返せない?

真光に関係なく、過去に戻ることはできません。「あのときああすれば、こうだったら」、という悩みをぐるぐる回っても何も変わりません。
他人と過去は変えられません。変えられるのは自分自身と、未来だけです。

失ったものを嘆く期間は必要ですが、過去を生き直すことはできません。過去に囚われても何の意味もありません。
人間は「今、ここ」しか生きられないのですから。

つらかったことは人に話すのが難しかったら、紙に書いてみましょう。
ここのコメント欄やネットの掲示板に書くのもよいでしょう。書くことで心の整理がつきます。頭の中だけで考えても、同じことをぐるぐる考えてネガティブに傾きがちです。

心がつらいのなら精神科の門をたたきましょう。それに抵抗があるのなら、まだ真光の医療否定が身に沁みついているのかもしれません。

あなたの足で、一歩前に踏み出しましょう。