真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光の罠:不幸を真光のせいにする

真光をやめただけで幸せになれますか?

Gさんは真光を脱会して数年が経ちます。
やめるときはある意味テンションが高かったものの、人生はつまらない日常の繰り返しです。
上司は無責任、後輩はワガママ、同僚はゴマスリだけで出世。
恋人を作る暇もなく、気づけば友達はとっくに家庭を持ち、自然と距離が出来てしまいました。
さりとて熱中するような趣味も生きがいもありません。

何も変わりませんでした。
真光をやめても、思ったようなバラ色の人生は始まらなかったのです。

そして段々と真光への怒りを思い出します。
信者から受けた仕打ちを思い出しては腹を立て、浪費した時間とお金を数えては悔しくなります。
「あのお金が今手元にあれば」
「真光にせいを出していた時間をスキルアップに使っていれば」
「もっといろんな人と仲良くしていればよかった。道場と縁が切れたら、仕事の関係しかなくなった」

Gさんは子供のころから真光漬けで、普通の人生を奪われました。
常識も教えられず、真光の常識を洗脳されました。勉強する時間はご奉仕にあてさせられ、将来に夢も描く暇もありませんでした。
信仰のせいでいじめられたり、距離を感じて人とうまく関係を築くことができませんでした。
なにより、未だに自信が持てないのです。

多くのものを失ったというよりは、始めから与えてもらえなかったという感覚です。
年を取るにつれ、実感が深まります。

「真光が憎い。自分が今不幸なのは真光のせいだ」
Gさんは真光への怒りを燃やしています。

そうして真光の神とされるものの目的はここに完成するのです。

真光のせいにするな?

「やっぱり真光の肩を持つのだな?」と思った100万人のみなさまごきげんよう

これは私が過去を振り返って初めて理解したことなのです。

「真光のせいにしたらよくない」と言ったところで主旨を理解していただくのは非常に困難でしょう。
分かる人には分かるけれど分からない人には分からないので、実はうまく説明できません。
数年前の私がこの記事を読んでも、怒って無視するか信者の書いたものだと決めつけるだけだと思います。

不幸になるとどうしても他人のせいにしたくなるものです。人間は弱いから仕方がありません。
他人のせいにして責任逃れをして楽になりたいものなのです。

人のせいにすると楽なのか?

しかし他人の責任にすると、自分の責任が軽くなる代わりに失うものがあります。

それは「自分の人生を生きること」です。

「自分で自分の人生を選択できる」「未来を自分で変えられる」という自信を失います。
むしろ自分にその力がないと思っているからこそ、他人のせいにするのかもしれません。
正体は無力感、無能感なのです。

「あの人が悪い」
「真光の責任だ」
「洗脳されただけ。私のせいじゃない」
これは自分の人生を自分で決めていないという意味です。

なぜ「あの人のせいだ」と外部の責任にするのでしょうか?
それは「自分の幸福を自分で獲得することができない」という確信があるからです。
自分自身への不信がその核にあります。

自分に責任がない代わりに、他人があなたの人生を支配しているのです。

「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか?*1

ユダヤのことわざです。
せっかく脱会しても真光のせいにし続けていたら、自分の人生を真光に支配されたままで一生を終えてしまいます。
真光を憎むということは真光に人生を差し出しているということです。
真光のせいにするというのは結局真光にコントロールされているということなのです。

「苦しんだのだから責任を問うくらい当たり前じゃないか」と思うでしょう?
そういう「当然」という感情が道を誤らせます。
一時的に感情的になるのは仕方がありません。どうせならその勢いで訴訟しましょう。それが建設的な発散というものです。

もはや真光は人生に関係ありません。真光に囚われ過去に縛られるのではなく「今、ここ」を生きるのです。過去は誰にも変えられないので悩むだけ無駄です。
過去を思い悩むのではなく、省みて対策を立てる。何が悪い、誰のせいではなく、原因を探してこれからどうするのかを考えるのが上策です。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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