真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

やめてほしけりゃ批判はするな

急がば回れ

真光をやめさせたいなら、やめさせようとしたらいけないんですよ。

禅問答をしているわけではありませんので、逆の立場で考えてみましょう。

他人に真光をやめさせようとする行為は、自分にとってはどういう行為に該当するか考えたことはありますか?
真光をインチキカルトだと知ってる人に対して入信を強要するのと同じです。棄教させる正義と信仰を強制する正義はまったく同一と言えます。

「どうして真光信者はこんな幼稚な教えを信じてるんだ」と思ってるあなたは、信者からは「邪霊から操られてるかわいそうな人だ」と思われています。
頭に血が上ったり自分が絶対的に正しいと思い込んでしまうと、この単純な事実が理解できなくなります。

「自分が正しくて向こうが間違っている!」

相手も同じことを考えています。これでは平行線で説得の余地はありませんよね。
やめさせるどころか、関係がぎくしゃくしてそのうち会話もしなくなり、同じ屋根の下にいるのも苦痛になります。

自分が正しいと思った時点で真光の罠にハマっています。
正しさは暴力の免罪符となり、いつの間にやら相手に対する敬意や思いやりが消えています。
そんな人間の言うことなど聞き入れるはずがありません。自分が同じことをされたら嫌でしょう?

棄教の暴力性

信仰を奪うことを軽く考えすぎなのではないでしょうか?

信者はつらいことがあったり、悩んだり、病気などの弱みにつけ込まれて真光を信仰することになったはずです。私が信者だった頃は病院の入院患者の部屋に入っていって勧誘するのが美徳でしたから。
親が信者で、母親のおなかの中にいるときから手かざしを受け続け、真光の教義を常識として教え育てられた二世信者もいます。
真光が日常になると、脱会することが海外に移住するのと同じくらい大変なことになるんですよ。

そんな状態でインチキの証拠なんかつきつけたらどうなりますか?
逆ギレして認めないなら、否定する元気があるわけですからまだましな方です。

真相を知り、インチキだと認めてしまえば、文字通り心の支えをボキっと折ることになります。精神を病んでしまってもおかしくありません。それでその後のことはどうするのですか?

むしろ心を折ってしまった方が真光にとっては利益になります。
真光の目的は人を苦しめることなので、もはや信者として教団に帰属しているかどうかは二の次です。
形式的には真光から脱会したとしても、真光憎しで夜も眠れないほど苦しんでいたり、脱会信者と現役信者の人間関係に亀裂が入るのならば、真光は喜ぶでしょう。

正しさとは暴力的なものです。信仰を強引に奪うことは、カルトでもすべきではありません。そんな権利は誰にもないのです。
第一そんなことをしても意味がありません。薬物依存症の人間から突然薬を取り上げても何もならないのと同じです。

カルトしか救いの手を差し伸べてくれなかった、そこにしか心の支えや居場所がなかったということもあるんですよ。
そういう人に対して必要なことは、強制的に目を覚まさせるようにインチキの証拠をつきつけることでしょうか?

unlearn-mahikari.hateblo.jp