真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

真光式感謝

真光の教えの「痛みに感謝」って変ですよね。マゾヒストじゃあるまいし、痛みや不幸そのものに感謝できるわけがありません。
確信をもって言いますが真光は感謝が大嫌いです。よってそんなきれいな気持ちは信者に持ってほしいわけがありません。

真光が言う感謝とは?

真光は一方的に先祖や前世などの罪を背負わせておいて、「不幸現象(ミソギ)でそれを消してやるのだから感謝しろ」と言います。まるでヤクザの言いがかりではありませんか。

神道における「禊(みそぎ)」とは水で洗い清めること。参拝する前に手を洗い口をすすぐことも簡略化した禊です*1
本殿にお参りしたときは心身の罪穢れを祓うために、神職の方が祓詞(はらえことば)を奏上し、大麻(おおぬさ)*2や塩湯などでお祓いをします*3

禊は死者の国である黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命(いざなきのみこと)が心身についた穢れを祓うために海で禊祓(みそぎはらえ)を行った神話が元になっています。
服を脱ぎ払う祓えと海水に身を浸す禊だそうで、やはり不幸や苦痛で罪を消すという話は出てきません。

なぜ禊祓がミソギハラヒに変わってしまったのでしょうか?

真光が教えるのは、勝手に押しつけた罪の意識につけこんだ偽物の感謝です。真光の意図としては罪悪感を盾にしてノーガードで不幸を味わえということです。

あら不思議。いつの間にか感謝が罪悪感にすり替えられています。カルトはよくすり替えたりねじ曲げたりします。

罪悪感は「罰を受けたい、償って許されたい」という気持ちにつながります。不幸現象で罪悪感を消すことが目的になり、感謝がどこかに消えてしまいましたね。罰を与えられること自体が目的になり、経験から気づくこともなく、学ぶこともできなくなるのです。

痛みに感謝して不幸そのものに注目してしまうと肝心のことに気づけません。「痛い=ありがたい」で思考が止まるのです。よく考え抜かれた教え(罠)だなぁと感心します。

「痛みに感謝」とは、「本当の学びからは目をそらせ」という意味なのです。

当然、自然に感謝がわきあがるような考え方は教えてくれません。そんなものは「真光の神とされるもの」は喜びませんからね。
真光が不幸にこだわるのは、その苦しみの怨嗟が彼らの栄養分になるからです。


神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

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