真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

カルトの見分け方 特別と非常識

「常識を非常識に」

とかいってる真光は直球で当てはまります。「今までの○○ではダメ」と脅しとセットにすると詐欺で使いやすいんですよね(エセ医学でもよくある言い回しです)。
用例:「現代医療はダメ、手かざしは特別に許された業」とか「今までの先祖祀りは間違いだ」とか。

エキセントリックな教えは選民思想に浸らせてくれます。人間は自分を特別だと思いたいものです。特に若いうちは客観性がありませんからそうなりがちです。

「自分を高く評価されたい」という願望に対して努力を重ね、現実の自分を理想に近づけていける人間もいます。しかしほとんどの人間は普通の人ですから努力しても人並みが関の山。経験を積むうちに自分に正当な評価を下し、それを受け入れていきます。

自己評価は高いが特段才能もなく努力もしない人間もいます。むしろこちらが主流かもしれません。そういう人間にとって努力もせずに特別になれる(という幻想を与えてくれる)ものはお金や時間を支払ってでもほしいものです。真光はその欲求を満たしてくれます。

本当の宗教はけっこう言うことが厳しいです。でも実現不可能なことではないラインなんですよね。だからこそ本当の意味で厳しいんです。最初から不可能なゴール設定だったら「そんなの無理だよ」ってあっさり諦められます。努力したら出来そうなゴールであるがゆえに目を逸らすしかなくなってしまうのです。

伝統宗教のアドバイスも、内容は当たり前のことが多いので目新しさもありません。例えば「コツコツ努力を続けなさい」なんてのは誰でも知っていて、意外性がないからつまらないんですよね。

人間が求めるエキセントリックな教えとは「楽してがっぽり儲けたい」ということです。参拝するだけで夢が叶ったり、お守りを買うだけで宝くじの一等が当たったり、何か楽していい思いができる方法があれば知りたいわけです。

カルト宗教が与えてくれそうに「見せかける」のはそちらの方です。「たった三日の研修でキリストも行った奇跡の業、手かざしができる」とか。
落ち着いて考えたら三日の座学でキリストになれるわけがありません。毎日奇跡だらけになり、真光の道場に行列ができてないとおかしいはずです。実際は信者がかなり減少しているようですね。

真光は本当に大事なことは何も教えてくれない

努力したっぽい「感じ」はいくらでも与えてくれます。なぜってあなたが本当によくなる道を閉ざすために。

私も含めて大半の人間はバカなんです。真光にはまってしまうような人間が特別に愚かだとは思っていませんし、むしろ普通なのです。欲があって、弱くてずるい、ただの人間です。
そういう意味では過剰に真光信者の特徴を悪し様に罵るのは感心しません。彼らは普通なだけなのです。
悪口を言うと真光の神とされるものが喜び、悪意をエネルギーにして力をつけてしまいますからね。

カルトは欲望につけこみ不安にさせてお金と人生を巻き上げます。
「真光に神はいない」「手かざしに医学的効果なんかない」という批判サイトは多いですが、私はもう一歩踏み込んで「真光は人の不幸をエネルギーにしているカルト」だと主張しています。
奇跡などのエサでおびき寄せて不幸にさせるのです。

金と時間を奪い、人生を奪う。真光のすること一つ一つ吟味すると「単に欲の皮が突っ張った人間がお金儲けしてるだけ」じゃなくて不幸にさせることそのものが目的だと分かります。
人の欲は強い。恨みや怒りなどのマイナスエネルギーは強い。だから真光はある意味強力なのです。人を引きつけてやみません。人間は弱くて欲が強いから引きつけられる。甘い匂いに吸い寄せられると後が大変ですよ。

手かざしに効果がないなんてウソですよ。あれは霊的なパワーがあります。最初に大きな奇跡の一つでも見せてやれば、その後は何十年経ってもやめられなくなるでしょう。ギャンブルで言うところのビギナーズラックです。だから真光を辞めた人でも「本当に奇跡があったという気持ちが消えない」という人がいるのも当然なんですよ。
それは本当に奇跡が起きたのです。絶対に辞めさせないためのエサですから。