真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

食べることは神事

伊勢神宮では一年に1500回の神事があります。そのうちの半分は一日に二度の神様のお食事です。
神様にお供えしたお下がりをいただいたり、秋には収穫に感謝するお祭りをします。

食べ過ぎで病気になる現代というのはほんのわずかな期間で、基本的には飢えとの戦いでした。食べないと人間は死にます。食べるということは命を長らえることと直結しているのです。だから食べることは大事な神事なのです。

さて、真光の攻撃には手かざし済みのものを飲食させるパターンが多いです。
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直接手かざしをすると気づかれることもあります。食べ物を渡すだけならバレにくいですよね。食べ物を捨てるのってかなり抵抗感がありますし。
手かざしの毒を盛ると体内に取り込まれ、抜けるのに時間がかかります。
人間の身体は食べたものでできています。自分の材料に真光が含まれるなんて嫌ですよね。

自分の行きつけのスーパーの店員に真光信者がいたら、知らず知らずに手かざし済みのものを口にしているかもしれません。
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個人が勝手に職場などで手かざしを行うことはあるでしょう。真光はそういうことを悪とは言わないでしょうね。

私も真光に関わりがあったのに、実家から手かざし済みの米をのんきに食べていました。
手かざし米を食べていた時期は、毎日悲しいし不安で大変でした。目の前によいことがあっても悪く受け取って被害妄想のような状態でした。

真光のことを何も知らない一般の人も、知らない間に手かざし済みのものを口に入れていることがあるかもしれません。私は手かざしの毒の怖さをよく知っていますが、何も気にならない人もいるかもしれません。

単に有機農法や無農薬の野菜やお米を買ったつもりなのに、手かざし済みかもしれない。エコでロハスエシカルな生活がしたかっただけなのに、聞いたこともないカルト宗教の邪念がこもった食べ物を食べさせられる。

オウム事件の影響もあり、宗教の看板をかかげていてはそんなに人は寄りつきません。宗教であることを隠して騙す手法はすでに広がっています。
スピリチュアル、自己啓発、エセ医学、占いなどなどカルトの手法はいろいろな分野に応用が利きます。

宗教というラベルがあるかないかだけで判断すると、カルトかどうかという肝心の判断が抜け落ちてしまいます。

墓参りと御利益

真光は墓参りから遠ざけようとします。
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そんなこともあって墓参りに行きました。
掃除道具は忘れてしまいましたが、亡くなった祖母に話しかけながら簡単な掃除をしました。祖母は私をよくかわいがってくれたものです。

その日はなぜか顔も全身も肌がきれいになって、うしおが驚いていました。すべすべでさわり心地がよいです。

思い返せば祖母はきれいな人でした。
見合いではありましたが祖父のことは大好きでした。祖父が亡くなった後もずっと愛し続けて仏壇に経を上げ、時折祖父を思い出しては寂しがっていました。

祖母はいつも身だしなみを整え、おしゃれが好きで化粧を欠かさない人でした。よく祖父が高価な着物や宝飾品をプレゼントしていたようです。
化粧品を百貨店で買い求め、年の割にはシミが少なく色白でした。

「おばあちゃんが喜んでくれたんだな」と思いました。

真光信者の女性はあまりおしゃれをせず、くすんだ色ばかり着ていたように思います。「化粧をしないと宗教に勧誘されやすくなるから、メイクは魔除けだ」言う人もいます。

とある真光隊の女性が髪を染めようとしたときは「染髪は邪霊が取り憑いている証拠」と言われてやめさせられました。
スカートのエピソードはとても象徴的です。
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化粧をし、髪を整え、着飾ること。
自分というものは自ら考えて選択し、それを繰り返すことで自分の人生を作り上げます。衣服や化粧は身近な自己表現です。
生活に最低限必要な物を「衣食住」といいますが、最初に来るのは衣服です。人間はなぜ、服が必要なのに体毛を失ったのでしょうか?

おしゃれをしている女性は生き生きしています。真光とは正反対の生き方です。
元々おしゃれに関心がないのならそれも一つの生き方です。
ただ、奪われたのなら今からでも取り戻しましょう。

五色人の元ネタは陰陽五行説

古来より日本は中国からの影響を受けています。古代の国際語は中国語でしたし*1老子孫子など中国の書籍は教養とされていました。

陰陽五行説

この宇宙のすべては「木火土金水(もくかどこんすい)」の5つの要素と「陰陽」2つの要素の掛け合わせ成り立つとする考え方です。色で表すと「青赤黄白黒」となります。
五色人はおそらくここから来ています。

陰陽道は宮廷の儀式にも取り入れられ、神道修験道に影響を与えました。
明治2年の近代に至るまで陰陽寮という国の機関がありました。

*1:国の正式な歴史書である日本書紀は、正式な漢文で書かれています

神社検定参級合格

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今年の六月に神社検定参級を受験しましたが、無事合格証書として絵馬が届きました。
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自己採点通り、98点です。

弐級用のテキストとして神社のいろは続きを購入して読み始めましたが、「参級はお客様向け」と言わんばかりに難易度が上がりました。

神社検定公式テキスト3『神社のいろは 続(つづき)』 (神社検定公式テキスト 3)

神社検定公式テキスト3『神社のいろは 続(つづき)』 (神社検定公式テキスト 3)

歴史の教科書並ですよ。相変わらず読めない漢字が平気で出てきます。
受験のコツでも触れましたが辞書、漢字辞典、古語辞典はあった方がよいと思います。

来年もがんばります。

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初代光玉=イエス・キリスト説

「tenは気でも狂ったか」と思ったかもしれないブログ読者と真光信者とキリスト教徒のみなさまいかがお過ごしですか。不謹慎を恐れてカルト批判はできません。

もうずいぶん前から、私とうしおさんの中で光玉氏のことは「害のないおもろいおっさん」という結論が出ています。酒を飲んだら楽しそうとすら思います。

真光の元ネタはキリスト教

うしおさんが言うには神道以上にキリスト教の影響が強いそうです。

手かざし

なんといっても手かざしで病気を治すところですね。
真光の初級研修では「イエス・キリストは手をかざして病気を治した。真光で小イエスになれると」と習います*1

聖書は手元にないので福音書を読んでいますが、イエスは病気治し以外に除霊・悪魔祓いもしています。イメージほど手をかざしているわけではないですが、マルコ6.5では「手をのせて、なおされた」*2とあるのでかつての救世教の浄霊のように手で触れる治療だったのでしょうか。

意外と基本的なことを失念してしまうのですが、このように元ネタはキリスト教です。イエスは宗教画ではだいたい手をかざしてるイメージがありますが、手元の芸術新潮2017年8月号にはそういう絵は掲載されていないので、真光の刷り込みかもしれません。

芸術新潮 2017年 08 月号

芸術新潮 2017年 08 月号

架神恭介が言うように、キリストはきっと気のいいロックなあんちゃんだったのでしょう*3。罪人や売春婦、税金取りという当時の被差別民に優しかった。その時代で言えば反社会的な行為だったでしょう。

光玉氏にしても、統計上に有意の差はなくても体感では手かざしの効果を感じていたでしょう。案外悪気はなかったかも知れません。

改竄と神格化

二代目以降教えが改竄されていることが明らかになり神格化される傾向にあります。後世の人々が話を盛ってしまうのは真光もキリスト教仏教と変わりません。

終末思想

世界の終わりがきそうな気がする人はいつの時代もいるようで、キリストの時代にもありました。天変地異だの戦争だので世界が終わる頃にメシアが現れるというのはキリスト教だけでなく仏教でも末法思想がありますね。

表現的にはキリスト教が元ネタのような気がします*4
ゾロアスター教にもあるそうなので*5、単に人がよく抱くディストピア願望的なものかなと思います。

さきがけのメシアや救い主というのもキリスト教の影響でしょうね。

地獄に落ちる

ゲヘナという言葉は初級研修で出たと思いますが、これもキリスト教の言葉です。
エスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネも、悔い改めないと「火の中に投げ込まれる」と説いています*6
対比するように「わたしは悔改めのために水で洗礼を授けている(マタイ3.11)」とあるので火と水という組み合わせもここからでしょうか。
洗礼という言葉も「その方は聖霊と裁きの火とで洗礼をお授けになる(同3.12)」からきています。

また真光では「ゲヘナは魂さえも焼いてしまう」と脅しますが、これもマタイ10.28「体を殺しても魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことの出来る方を恐れよ」とあります。

信者になっても安心できない

初級研修で真光信者になっても火の洗礼を免れられるとは限らないと脅されます。

これも洗礼者ヨハネが、洗礼を受けに来た大勢のパリサイ人とサドカイ人に「蝮(まむし)の末ども、わたしから洗礼を受けて来るべき神の怒りの裁きを免れるようにと、だれがおしえたのか。本当に悔改めたのか。それなら洗礼を受けるだけでなく、悔改めにふさわしい実を結べ。『われわれの先祖はアブラハムであるから大丈夫だ』などと考えてはならない(3.7)」と言ったことが元かも知れません。

元の文を読むと儀式さえをやってりゃ大丈夫と思わず、ちゃんと日々の行動に表しなさいよという意味なのが分かりますが、真光式だと入信しても心が安まらない感じしかしませんね。

宝を地上に積むな。天の倉に積め

善行や祈りは人の目につくところでこれ見よがしにやるんじゃなくてこっそりやりなさいよ。相手は天の父ですよと説いてるのですが、これも真光になんかあった気がします。
神様に貯金でしたっけ? 本当に思い出せないので誰か教えてください。

身内は入信しなかった。

光玉氏には妻子がいましたが入信することはなかったと言われています。
エスも生地ナザレで教えを説いたものの耳を傾ける者はなく、「預言者が尊敬されないのは、その郷里と親族と家族のところだけである」と人々の不信仰に驚いたとあります(マルコ6.1-6)。

悟り

またイエスは喩えをよく使い、弟子が意味を理解しかねると「まだ悟らないのか」と言います。
真光もサトるサトると言います。差を取るからサトリと言っていましたがどういう意味なのは思い出せません。覚えてる方がいらしたら教えてください。

神の子

真光でも「神の子、人」という言い方をしますが、福音書でも人の子とか神の子という言い方をします。
神道でも神様は人間の親ですよという言い方はするのですが、肝心の人間の誕生は神話になく、いつの間にかいます。神様が人を作ったという世界観はキリスト教よりだと思います。

人を裁くな

これも聖書から来ています。道徳的な教えは割と聖書ネタが多い気がします。

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書福音書塚本虎二訳のあとがきによると、昭和初期には口語訳聖書はなく、文語体だったそうです。当時の人にとってもそれは理解しにくいものでした。

塚本氏は口語体に改訳したものを昭和5~6年から個人雑誌に掲載を始め、14年かけて完成させました。
威厳がないという批判を受け「結局宗教の経典は意味はわからずに朗読されるものを聴聞し、暗記するに便利なように出来ているのである」と述べています*7

その後各所から口語訳が出版されました。昭和25年にカトリックから新訳、27年にキリスト新聞社から新訳、28年に塚本氏のマルコ福音書、29年に日本聖書協会から旧約新訳。
そして真光は昭和35年頃です。つまり普通の人にとって意味が理解できる口語訳が常識となったのちの立教です。

イエス・キリストと光玉氏の共通点

実は本当に一つだけこの二人に共通項があります。
それは冤罪です。

*1:入信前のキャッチコピーかも?

*2:

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

*3:

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

*4:

かわいい☆キリスト教のほん

かわいい☆キリスト教のほん

P25

*5:同P40

*6:マタイ3.10

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

*7:同書P415

真光の罠:人格攻撃

Fさんは真光批判サイトを立ち上げるのは面倒くさいので、真光批判系の掲示板に投稿するようになりました。ときおり現役の信者が乱入することがあり、そんな彼らを「論理的に」打ちのめすのがFさんの喜びでした。

教義の矛盾やパクリ、手かざしのインチキ、教祖のセクハラ、二代目は妾などの事実を突きつける瞬間は大変気持ちのよいものでした。

Fさんは自分を論理的で賢い人間だと思っていました。何しろ自分は批判サイトを見て目を覚ましたのですから、頭の良さに自信を持っています。信者のことは「頭や心が弱いから宗教にすがりつくダメな人間だ」と思っています。

今日もFさんは自分の正義を信じて掲示板に書き込みをします。

「信者は欲の皮がつっぱってるから、あんなインチキの御利益宗教に騙されるんだよ」
「ブサイクおばさん」
「ネットで検索したら真光のパクリもインチキもすぐに見つかるのに、いまだに信じてるなんて頭悪すぎでしょ」
「信者なんて悪口、いじめ、セクハラばっかり。教祖様がセクハラオヤジだから信者もそうなるんだよ」
「いい大人がダジャレ教義まじめに信じてバカみたい」

Fさんは今日も信者の人格否定を正義だと確信しています。
論破して相手を黙らせ、去らせることが勝利だと信じています。
教義や教祖を批判することが真光の攻撃になると思いこんでいます。
信者の信念を折ることが真光を弱らせると勘違いをしています。

そんなFさんを見て真光の神とされるものは声を押し殺して笑うのでした。

真光批判は罠

Fさんのしたことはすべて真光を喜ばせることです。
真光を攻撃するということは、自分自身を攻撃することだからです。かつては真面目に信じていた過去を否定する行為です。自分の過去一部を切り離したり、なかったことにしたりできないのです。

人格攻撃に至っては単なる悪口です。
人格攻撃などしても信者はますます頑なになるばかりで、やめさせるのとは正反対に向かうばかりです。やはり真光の神の利益になります。これが真光の罠です。

過去は受け入れて、乗り越えましょう。
時計の針は戻せませんしタイムマシンもありません。どうにもならないことはどうにもならないのです。
私の好きな言葉は「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」です。

さぁ、これからどうします?

真光公式サイトについて語るうしおさん

うしおさんに崇教真光の公式サイトを見せてみました。
手かざしを人類に授けた理由のところに火の洗礼が近くて間に合わないからというくだりを見て、
「何十年もかけていたら間に合わないなんて浅はか。人間の人生なんてほんの一瞬でしかない。長い時間をかけてなんぼのもんだろう。自分さえ助かればいいという考え方は神様が嫌うはずなのにね」と言っていました。