真光やめたら幸せになりました

真光やめるほどじゃないけど、ちょっと疲れたな。そんなときは一息つきましょう。無理にやめなくてもいいんですよ。

神道の教科書、神社検定

以前から「神道は教典がないなぁ」と思っていました。書店のセンスの問題なんでしょうが、神道の本はなかなかいいのが置いてありません。おみくじに書いてある神の教えぐらいしかないなぁとボヤいておりました。
unlearn-mahikari.hateblo.jp
先日遠出をしたときに大きな本屋に行く機会がありました。「何か神道の本でよいものはないかなぁ」と探しましたが、宗教コーナーに新宗教の書籍はあるのに神道の本がまったくなくてびっくりしました。世界神話とか民族文化扱いなんですね。

そこですばらしいものを見つけました。神社検定(神道文化検定)の公式テキストと申込書です。

www.jinjakentei.jp

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

  • 発売日: 2012/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「神社のいろは」は一般向けの神社本よりも踏み込んだ内容となっており、参拝の作法や各神社の由来だけではありません。祭りの種類や意味、本殿での祈願の作法、神棚のお祀りの仕方、神道式の葬式やお墓など、神道文化の基礎が学べる本です。
試験を受けない方であっても読んで損はありません。

神社のいろはで一番衝撃的だったのは仏教の仏壇にあたる御霊舎(みたまや)という祖先の霊をお祀りするものの存在ですね。神道が葬式から排除されたのはなんとなく知っていたのですが、私の頭の中では「仏壇=仏教」なわけで、先祖崇拝は仏教から始まったものと思いこんでいました*1。そりゃあ仏教伝来以前にも先祖崇拝はあるよなあと心を改めました。

神社検定とそのテキストは安心の神社本庁監修!
内容が信頼できますので、検定のテキストというだけではなく神道の教科書と言っていいと思います。

「めんどうくさい話はいいから御利益教えて」的な要望に応える本とか、ゆるふわスピリチュアルなど、カルトに近い神道本とは一線を画しています。

正しい教えを知らなければ真光の洗脳は溶けません

――などとえらそうなことを書いておきながら、私が神道の勉強を始めたのはほんの数日前のことです。
やってみると分りますが、神道の勉強を真光が嫌がっているのを感じます。

真光の初級研修のときから、「既存の宗教では○○と教えてますが(真光では)××が正しいのですよ」と教えられます。これを一つずつ元ネタを探し当て、一歩一歩過ちを正していくのです。
それがこのブログの最初のタイトル案であり、urlにも含まれている「学び直し(unlearn)」です。

私の中に残っている真光の残骸を取り除いて行く作業がようやく始まりました。

昔の私に比べれば、今の私は真光の毒が抜けています。しかしまだ少しばかり残っているのです。
この「あと一押し」というのが、できそうでなかなかできないというのが現状です。

真光にいたのが十年以上。やめてから十数年。
真光をちゃんとやめられていないことに気づいてから、まだ一年も経っていません。どうせすでに長い時間が経過しているのです。焦る必要はありません。

真光が嫌がるのは正しい教えを知ることです。本当の意味で洗脳を解くのにも役に立つはずです。
勉強は面倒くさいものですが、必ずそれは自分の身になります。

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

神社検定公式テキスト1『神社のいろは』

  • 発売日: 2012/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
神社検定公式テキスト2『神話のおへそ』

神社検定公式テキスト2『神話のおへそ』

  • 発売日: 2012/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
神社検定公式テキスト10『神話のおへそ『日本書紀』編』

神社検定公式テキスト10『神話のおへそ『日本書紀』編』

  • 発売日: 2016/12/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
神社検定公式テキスト9『神話のおへそ『古語拾遺』編』

神社検定公式テキスト9『神話のおへそ『古語拾遺』編』

  • 発売日: 2015/12/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
第5回 神社検定 問題と解説

第5回 神社検定 問題と解説

  • 発売日: 2016/12/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
神社検定公式テキスト8『万葉集と神様』

神社検定公式テキスト8『万葉集と神様』

  • 発売日: 2014/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:「神社のいろは」138P。

仕事運上昇

どうしてなのかは分からないのですが、ぼんやりとして通勤用のカバンに御朱印帳を入れてしまいました。
「まぁいいか、何か意味があるかもしれないし」と思ってそのときはそのまま忘れて週明けにそのまま出社しました。人生で初めて御朱印帳を職場に持って行きましたね。

その日は胃腸の調子が悪かったので、外宮の御朱印のページを開いて豊受大御神(とようけのおおみかみ)様においしくご飯が食べられますようにとお願いをして無事に食べました。

仕事場でいいことがありまして、うしおさんが「今回は(先月お参りした出世の)神様の存在を感じるなあ。御朱印が連れてきてるのかなぁ」と言い出しました。

「何で分かったの?」
朱印帳を職場に持って行ったことは自分が完全に忘れていたくらいなので、うしおさんには何も言っていません。
こういう何で知ってるんだ系のことがちょいちょい起こるんですが、うしおさんの正体が一番知りたいのは私です。

真光が避けるもの:福祉

「福祉は福を止める」として避けさせようとしますね。生活保護はダメと言う人もいるようです。

生まれつきの障害や、事故などで後天的に障害を負うこともあります。病気などで一時的に働けなくなることもあります。
すべての人間がいつまでもピンピンしているわけではありません。少なくとも老化は誰でもしますよね。

「だからお互い助け合いましょうね」というのが普通の社会です。個人同士が相手を支え合って社会は成立しています。

しかし真光はそれを否定しています。いわば究極の自己責任論ですね。

生まれつきの障害なんて本人に罪も責任もないのですが、真光は前世や先祖の罪を持ち出してましたね。今でもこの手の差別発言はしてるんでしょうか?

でも自己責任で生きていける人なんていませんよね。誰も頼らずに生きていくことはできません。
もしできると思っているならそれは単に無知か傲慢です。

コンビニがあれば生きていける?

商品を生産したり配送したり、レジを打ったり陳列しているのは誰でしょうか。
企画、開発、営業、生産、配送、売買、ゴミの回収。自分以外の誰かが何かをしています。道路や電車があり、蛇口をひねれば水が出る。それを用意してくれたのは誰ですか? 裸で生活していますか? その服を作ったのは誰ですか?

例えば病気を治すのにも医者だけがいればよいわけではありません。研究する人、薬を売る人、病院の設計図を書く人、医学書の誤字脱字をチェックする人、看護師の制服を縫う人、医療器具の安全基準を考える人、食堂のメニューの栄養管理をする人、大学を作る人、補助金の申請書を書く人、離島にヘリを飛ばす人、治験に参加する人、医療事故で亡くなる人、遺体を献体する人、珍しい症例を持つ人、医者が通勤する電車を運転する人……必要な人がたくさんいます。多くの人が務めを果たしてこの世は成り立っています。

感謝しましょう。

カルトの見分け方:勧誘してくる

路上や訪問で勧誘してくる宗教はろくなことがないので避けましょう。目的を隠したり嘘をついて呼び寄せて、実は宗教の勧誘だったなんてのは最悪です。逃げましょう。

断るときに理由を聞かれるかもしれませんね。しかし具体的なことを答えてはいけません。こういうものは緻密に考えられた反論マニュアルが用意されているものです*1。具体的に答えてしまうと一つずつ反論されてやりこめられてしまい、できない理由を潰されてしまいます。

ですから「嫌だから」や「取り立ててやろうとは思わない」と答えれば十分です。好き嫌いに理由なんかありませんからね。
「どうしても理由を言え」としつこく問いつめられた場合は、逆に「何故理由を言わないといけないのか? その理由は?」と尋ねましょう。

そもそもなぜ勧誘するのでしょうか?

勧誘でもしないと人が集まらない宗教だからです。
神様というものは自分で選ぶものではないでしょうか? 神様は神社などに鎮座しておられるものです。こちらから出向いて参拝するのが礼儀でしょう。

頼みもしないのにやってくるのは悪徳な訪問販売くらいのものです。
「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだね」
至言ですね。能動的に、自分から動きましょう。

*1:相手はプロです。論争など丸腰で洗車と戦うようなものです

急病につけいる真光:医療否定

急病

私は基本的に健康なのですが、珍しく重病になりました。

その日は症状がひどいのに会社も早退しませんでした。無理をしているつもりはないのですが、健康が逆に災いして労ったり休んだりする習慣がないのです。医療否定で育ったせいもあります。

夜中の痛苦にあえぐ私に、うしおさんが何度も「救急車を呼ぼう」というのを頑固に拒否し続けました。今思えばあれは真光の医療否定ですね。
「医者に行かない、救急車も呼ばない」と言いながらのたうち回る私にうしおさんは困り果ててしまいました。
激痛に窮してついに救急車を呼んだときには、専門病院の受付が終わっていました。あと10分早ければ間に合ったのにというところでした。
「専門科ではないので診察はできない。痛み止めの処方だけになると思うがよいか」と確認されてから救急車をお願いしました。

「こんなことで救急車を呼んでいいのかな」という申し訳ない気持ちで乗りました。救急隊員さんたちは優しく接してくれて、大丈夫ですよと声をかけてくれました。きびきびと働く彼らを見て感謝の思いがあふれ、感極まって泣いてしまいました。24時間体制で夜勤も急な呼び出しもいとわずに働いてくれる人たちのなんと尊いことでしょう。

病院では担当の科の先生はおらず、話は聞いてくれましたが痛み止めだけの処方でした。それでも医者に何かしてもらうと心が安らぐものです。
苦しみが深かった分、医者のありがたみが分かると同時に、どうしようもなくなってエセ医学にたどり着く人の気持ちも少しばかり分かったような気がします。おぼれるものは藁をもつかむ。

真光との闘い

(こんなに弱ったときにはきっと真光がつけいるだろう。こんな大きな隙を見逃すはずがない)
額がムズムズしたり身体が重くなったりしました。単なる病気の苦しみだけではなかったように思います。
病気との苦闘に耐えかねて、「もうダメだ」「一生このままかもしれない」などと悪い考えばかりが思い浮かびました。

うしおさんの献身的な看病にも感謝ができませんでした。身体が思うように動かせずにイライラして、ヒステリックな態度を取りました。普通なら大喧嘩になるはずですが、うしおさんの器が大きいおかげでそうはなりませんでした。うしおさんも当たり散らされて何も思わないわけではありませんが、「一番つらいのはtenさんなんだから」と受け入れてくれました。

何度もいろんな病院に行きました。医者にかかると安心していったん症状が落ち着くのですが、時間が経つとまた悪くなります。
このときはもうひたすら真剣に神棚に祈りました。今までで一番まじめに拝んだものです。

うしおさんとLINEで相談して、ぎりぎり間に合ったので専門科の病院に行きました。処置を受けて家に戻ると、水を飲むのもつらかったのに栄養ゼリーなどが飲めるようになり、一気に回復しました。
大好きなカフェオレを自分で入れることもできました。数日ぶりに人間らしいものを食べられるようになりました。
普通に生きて、食事が取れるというのはありがたいことですね。

真光に戻れ

一方私が病院に行く直前、うしおさんは大変なことになっていました。
「tenさんを(真光信者の)実家に連れてこい」「手かざしすればすぐ治る」という声がすごくて発狂しそうだったそうです。「(狂信者の)妹の顔や真光式の仏壇が見えて、目眩がして尻餅をついた」そうです。
「ああこれは病院に行かせないようにしているんだ」とうしおさんは判断して、私に病院に行くように知らせてきました。

信者の母のことは私の頭にもよぎりましたが、「絶対手かざしで悪化するからやめておこう」とすぐにその考えを捨てました。なのでうしおさんに訴えかけたようです。うしおさんの言うことは素直に聞きますからね。

この声に従って実家――つまり真光の領域に行けば取り返しのつかないことになっていたと思います。
単に悪化するのではなく、むしろ快方に向かった可能性すらあります。ええ、「治って」しまうんですよ。書き間違いではありません。このときは治るんです。
だって真光のこと信じてしまいますよね、そんなことになったら。
実家に入り浸り、窮地をすくった真光に恩義を感じ、母から手かざしを受けるようになるでしょう。いつかは再入信するかもしれません。
……洗脳が完了したらあとは搾取の始まりです。

批判サイトでは「手かざしに気のせい以上の効果はなく、ただのインチキだ」ということしか書かれていないことがあります。
何も効果がない、つまり良くも悪くもならないので害はないというわけです。

真光の神が望むもの

しかし私は手かざしが霊的に有害であると主張します。真光に神はいないのではなく、悪い神がいます。医療否定で病気を悪化させ、長引かせ、痛みと苦しみを増幅して深く味わわせ、金銭と時間と心身の健康、ときには命さえ奪う。
それが真光の望むものです。

カルトの見分け方 特別と非常識

「常識を非常識に」

とかいってる真光は直球で当てはまります。「今までの○○ではダメ」と脅しとセットにすると詐欺で使いやすいんですよね(エセ医学でもよくある言い回しです)。
用例:「現代医療はダメ、手かざしは特別に許された業」とか「今までの先祖祀りは間違いだ」とか。

エキセントリックな教えは選民思想に浸らせてくれます。人間は自分を特別だと思いたいものです。特に若いうちは客観性がありませんからそうなりがちです。

「自分を高く評価されたい」という願望に対して努力を重ね、現実の自分を理想に近づけていける人間もいます。しかしほとんどの人間は普通の人ですから努力しても人並みが関の山。経験を積むうちに自分に正当な評価を下し、それを受け入れていきます。

自己評価は高いが特段才能もなく努力もしない人間もいます。むしろこちらが主流かもしれません。そういう人間にとって努力もせずに特別になれる(という幻想を与えてくれる)ものはお金や時間を支払ってでもほしいものです。真光はその欲求を満たしてくれます。

本当の宗教はけっこう言うことが厳しいです。でも実現不可能なことではないラインなんですよね。だからこそ本当の意味で厳しいんです。最初から不可能なゴール設定だったら「そんなの無理だよ」ってあっさり諦められます。努力したら出来そうなゴールであるがゆえに目を逸らすしかなくなってしまうのです。

伝統宗教のアドバイスも、内容は当たり前のことが多いので目新しさもありません。例えば「コツコツ努力を続けなさい」なんてのは誰でも知っていて、意外性がないからつまらないんですよね。

人間が求めるエキセントリックな教えとは「楽してがっぽり儲けたい」ということです。参拝するだけで夢が叶ったり、お守りを買うだけで宝くじの一等が当たったり、何か楽していい思いができる方法があれば知りたいわけです。

カルト宗教が与えてくれそうに「見せかける」のはそちらの方です。「たった三日の研修でキリストも行った奇跡の業、手かざしができる」とか。
落ち着いて考えたら三日の座学でキリストになれるわけがありません。毎日奇跡だらけになり、真光の道場に行列ができてないとおかしいはずです。実際は信者がかなり減少しているようですね。

真光は本当に大事なことは何も教えてくれない

努力したっぽい「感じ」はいくらでも与えてくれます。なぜってあなたが本当によくなる道を閉ざすために。

私も含めて大半の人間はバカなんです。真光にはまってしまうような人間が特別に愚かだとは思っていませんし、むしろ普通なのです。欲があって、弱くてずるい、ただの人間です。
そういう意味では過剰に真光信者の特徴を悪し様に罵るのは感心しません。彼らは普通なだけなのです。
悪口を言うと真光の神とされるものが喜び、悪意をエネルギーにして力をつけてしまいますからね。

カルトは欲望につけこみ不安にさせてお金と人生を巻き上げます。
「真光に神はいない」「手かざしに医学的効果なんかない」という批判サイトは多いですが、私はもう一歩踏み込んで「真光は人の不幸をエネルギーにしているカルト」だと主張しています。
奇跡などのエサでおびき寄せて不幸にさせるのです。

金と時間を奪い、人生を奪う。真光のすること一つ一つ吟味すると「単に欲の皮が突っ張った人間がお金儲けしてるだけ」じゃなくて不幸にさせることそのものが目的だと分かります。
人の欲は強い。恨みや怒りなどのマイナスエネルギーは強い。だから真光はある意味強力なのです。人を引きつけてやみません。人間は弱くて欲が強いから引きつけられる。甘い匂いに吸い寄せられると後が大変ですよ。

手かざしに効果がないなんてウソですよ。あれは霊的なパワーがあります。最初に大きな奇跡の一つでも見せてやれば、その後は何十年経ってもやめられなくなるでしょう。ギャンブルで言うところのビギナーズラックです。だから真光を辞めた人でも「本当に奇跡があったという気持ちが消えない」という人がいるのも当然なんですよ。
それは本当に奇跡が起きたのです。絶対に辞めさせないためのエサですから。

感謝状を書きましょう

とある方に危機を救っていただきました。思わず涙あふれるほどに感謝をしたのでせめてお礼状を書くことにしました。
文面を考える間も「こんなことするなんて無駄だよ」「陰ではお前の悪口を言っている」「あいつら高給取りなんだからそんなの書かなくていい」「気持ち悪いと思われる」などの雑念が思い浮かびました。必死とも言えるほどの雑念が聞こえてきました*1

「ああ、これまた真光がじゃましてるんだな」と思いました*2

真光が本当に嫌がることは、真光への批判ではありません。正しいことをすると真光は嫌がります。善行をして真光に正しく嫌がらせをしましょう。

最近人に感謝してますか?
面と向かって言うのが恥ずかしかったら、付箋でも十分です。ありがとうの気持ちを伝えてみましょう。

*1:実際に他人の声が聞こえている訳ではありません。心の声です

*2:すごーい! 真光さんは本当に感謝が嫌いなフレンズなんだね